伝記
ジョン・ラスキンは、1819年2月8日にロンドンで、富裕な葡萄酒商人の一人っ子として生まれた、19世紀イギリス・ヴィクトリア時代を代表する美術評論家である。同時に芸術家のパトロンであり、設計製図や水彩画もこなし、社会思想家であり、篤志家でもあった。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、『近代画家論』を著したほか、中世のゴシック美術を賛美する『建築の七燈』『ヴェネツィアの石』などを執筆した。両親はいとこ同士で、熱心な福音派の信者だった母は、幼いころから聖書の暗記を命じた。学校には行かず、両親と家庭教師によって宗教色の強い教育を受けたため、友人もなく、子供らしい遊びもしなかった。一方で、家族でヨーロッパをしばしば旅したことで、自然に親しみ、動植物や風景を観察してスケッチする習慣を身につけた。1824年、5歳のときに初めて湖水地方を訪れ、以後もスケッチのために何度も足を運んだ。
オックスフォード大学のクライストチャーチに進学したが、なじめず、病気を繰り返した。母は大学の近くに仮住まいし、週末には父も合流するような過保護な生活だったが、詩作に才能を発揮し、在学中に詩の賞を受けている。ターナーとの交流から、その芸術を擁護するエッセイを書いて、批評活動に入った。上昇志向の強い両親は、ラスキンが聖職者か桂冠詩人になることを望んでいたが、ターナー作品を集めたり、ターナーらを自宅に招いたりして、彼の活動を支援した。『近代画家論』のために、家族で何度もヨーロッパへ取材旅行にも出かけた。1848年にエフィー・グレイと結婚したが、ラスキンが精神的、経済的に支えていたラファエル前派の画家ミレーと、1853年にスコットランドを旅した際、妻とミレーが恋仲になってしまった。エフィーは、夫の身体的理由で夫婦生活が無かったとして離婚を申し立て、1854年に離婚に至り、すぐにミレーと再婚した。
ロンドンの労働者専門学校で教えた後、1869年から1879年までオックスフォード大学の教授を務めた。ここでルイス・キャロルと親しくなり、写真を撮影されている。『不思議の国のアリス』のモデルであるアリス・リデルの美術の家庭教師もしていた。父の死後、財産を相続したが、社会主義者としての信条から、その多くを投げ打って慈善事業を行った。1858年から裕福なアイルランド人家庭の子供たちに美術を教え、その一人、9歳のローズに魅了された。彼女が16歳になると、何度も結婚を申し込んだが、宗教が違うことを理由に断られた。1875年にローズが27歳で急死すると、強い精神的なダメージを受け、しばしば発作に見舞われるようになった。1871年には湖水地方のコニストン湖東岸の邸宅ブラントウッドを購入し、1872年から暮らして、ダーウィンやホルマン・ハントらが訪れた。1883年には、湖水地方に鉄道を延ばす法案に反対する運動にも加わった。
1878年、ホイッスラーの作品を酷評したことで名誉毀損で訴えられ、ラスキンは敗れたが、賠償金は1ファージングにとどまった。それでも名を落とし、精神活動の低下をうながした可能性もある。美術に関する考えは、一言でいえば「自然をありのままに再現すべきだ」というもので、その根幹には、神の創造物である自然に完全さを見いだす信仰があった。ヴィクトリア朝からエドワード朝にかけて、美術批評の枠を超えた大きな影響力を持ち、ラファエル前派やウィリアム・モリスの芸術観も、彼の影響なしには語れない。トルストイは、彼を「自身の心で考える稀有の人物の一人」と評した。1900年1月20日に没した。
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