伝記
オッドーネ・ディ・サヴォイアは、11世紀中ごろのサヴォイア家の当主である。フランス語ではオトンあるいはオドンと呼ばれ、ドイツ名ではオットー・フォン・ザヴォイエンともいう。生年は1010年から1020年の間とも1023年頃ともいわれ、没年は1057年とも1060年頃ともされる。サヴォイア伯、アオスタ伯、トリノ辺境伯、モーリエンヌ伯を名乗った人物として知られ、在位は1051年頃からとされる。ただし近年の歴史家は、この家がサヴォイア伯の称号を用いるようになるのは1125年からで、オッドーネは「モーリエンヌの伯」「イタリアの辺境伯」と呼ぶのが適切だと指摘している。
父はサヴォイア家の創始者とされる白手のウンベルト1世、母はアンシリアである。オッドーネはその四男で、生まれはモーリエンヌ地方のシャルボニエール城だった可能性が高いとされる。長兄アメデーオ1世が跡を継ぎ、ほかの二人の兄は聖職者の道に進んだ。ブルカルドはアオスタ司教、さらにリヨン大司教となり、アイモーネはサン・モーリス・ダゴーヌ修道院長からシオン司教となった。そのためオッドーネは本来、爵位を継ぐ立場にはなかった。
転機は結婚だった。1045年から1046年頃、皇帝の許可を得て、スーザ辺境伯でトリノ女伯のアデライデを妻に迎えた。アデライデはトリノ辺境伯オルデリーコ・マンフレーディ2世の娘で、すでに二度の結婚で夫を亡くしており、シュヴァーベン大公だった最初の夫との間には二人の子がいた。この結婚により、オッドーネは北イタリアに広大な領地と、スーザとその谷、またイヴレアやピネローロを含むピエモンテへの権利を得た。皇帝の一族に近づく足がかりにもなったという。こうして彼は「イタリアの辺境伯」の肩書きで文書に署名するようになった。
長兄アメデーオ1世が男子の跡継ぎを残さずに没すると、1051年頃にオッドーネが伯位を継承した。継承の順では二人の兄のほうが先だったが、彼らは聖職にあったためか、オッドーネが伯位を受け継いだ。当時三十歳代だったとみられる。その結果サヴォイア家の領土は大きく広がった。もともと現在のイタリアとフランスの国境にまたがる地域を治めていた家だったが、オッドーネは積極的にイタリアへの拡大を進め、ピエモンテのほとんどを手に入れるに至った。アデライデはピネローロにサンタ・マリア修道院を建てた。ブルジェ小修道院の創建には、オッドーネか兄アメデーオが関わったと考えられている。また、一族で最初にエギュベルの城で貨幣を鋳造させたようだが、職人が質を落とした貨幣を作ったため、ヴィエンヌ大司教から苦情を受け、のちに工房を閉鎖したという。
オッドーネとアデライデの間には、ピエトロ1世、アメデーオ2世、アスティ司教となったオッドーネ2世、そしてベルタとアデライデ2世の二人の娘が生まれた。ベルタは皇帝ハインリヒ4世の妃となり、のちのハインリヒ5世を産んだ。アデライデ2世は、ハインリヒ4世の政敵だったシュヴァーベン大公ルドルフ・フォン・ラインフェルデンに嫁いだ。オッドーネは1057年に没したとされ、長男ピエトロ1世が跡を継いだ。没した地はトリノだとする説もある。生前に領地を分け、イタリアの領地と辺境伯位はピエトロに、ブルグントの領地と伯位はアメデーオに与えたとも伝えられる。ただし父の死後、二人の息子はそろって母の後見のもとに置かれた。
同じ年に亡くなった人物
- ウンフレード・ダルタヴィッラ (1057年)
- 定朝 (1057年没)
- ウィクトル2世 (ローマ教皇) (1057年没)
- ルノー1世 (ブルゴーニュ伯) (1057年没)
- オットー3世 (シュヴァーベン大公) (1057年没)
同じ地域に関係する人物
- Teobaldo Depetrini (1996年没)
- マリーア・テレーザ・ダウストリア=エステ (1832年没)
- ジャンピエロ・コンビ (1956年没)
- クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール (1734年没)
- エリザベッタ・テレーザ・ディ・ロレーナ (1741年没)