伝記
ウィクトル2世は、11世紀半ばのローマ教皇で、在位は1055年から1057年である。ドイツ人であり、のちのグレゴリウス改革の基礎を築いた一人とされる。1018年ごろに生まれ、1057年7月28日に世を去った。本名はゲプハルトである。出身地について、日本語版の資料はシュヴァーベンのカルフとするが、英語版の資料は生地は不明とする。父はシュヴァーベンのカルフ伯ハルトヴィヒで、皇帝ハインリヒ3世の親族にあたる。父の兄弟ゴテバルトは、アイヒシュテットの参事会員、シュパイアーの司教座聖堂参事会長、イタリア担当の帝国書記官長を務め、1049年から1063年までアクイレイア総大司教であった。
24歳のとき、皇帝の伯父であるレーゲンスブルク司教ゲプハルトの提案で、アイヒシュテットの司教に任命された。この地位で皇帝の利益を支え、やがて最も近い助言者の一人になったという。教皇レオ9世が1053年にノルマン人との戦いで囚われ、翌年に死ぬと、のちのグレゴリウス7世であるヒルデブラントが率いるローマの聖職者と市民の使節がマインツを訪れ、ゲプハルトを後継に指名するよう皇帝に求めた。1055年3月、レーゲンスブルクの宮廷会議で、ゲプハルトは、教皇座から奪われた財産を皇帝が返還することを条件に教皇位を受け入れた。皇帝が同意したため、彼はウィクトル2世を名乗ってローマへ移り、1055年4月13日にサン・ピエトロ大聖堂で戴冠した。
同年6月、フィレンツェで皇帝と会い、約120人の司教が出席した会議を開いて、レオ9世による聖職者の妻帯、聖職売買、教会財産の流出への非難を引き継ぎ、強化した。同じ1055年には、カルカソンヌ伯妃エルメザンドの要請により、バルセロナ伯ラモン・バランゲー1世とアルモディス・ド・ラ・マルシュを、不貞の罪で破門した。ハインリヒ3世がドイツへ戻る際には、教皇にイタリアにおける皇帝代理の権限を与え、上ロートリンゲン公ゴットフリートの野心を抑える役目を託した。1056年の夏には、ローマ人から悪く扱われていることを訴えるため、再び皇帝の宮廷へ向かった。そこで同年10月5日、ハルツのボートフェルトで、危篤のハインリヒ3世の死を看取った。
この後は、幼いハインリヒ4世の後見人となり、その母で摂政のアグネスの補佐役として絶大な権力をふるい、帝国の平和の維持や教皇権の拡張に努めた。その権力を、諸侯の攻撃に対して教皇権を強めるためにも用いたとされる。1057年の四旬節の初めにローマへの帰路に就き、4月18日にラテラノ大聖堂で教会会議を開いた。5月にはトスカーナを訪れ、フィレンツェでゴットフリートと会談し、アレッツォ近郊でも教会会議を開いた。しかし、イタリアに帰ってまもなく、1057年7月28日にアレッツォで亡くなった。在位は約2年3か月であった。
ウィクトル2世の従者は遺骸をアイヒシュテットに葬ろうとしたが、その途上のラヴェンナで市民に遺骸を押収され、東ゴート王テオドリック大王の霊廟に葬られた。彼の死は、ザーリアー朝と教皇庁の密接な関係の終わりを意味したという。歴史上9人いるドイツ人教皇の一人であり、現在のドイツ連邦共和国の領域の出身者は、彼とクレメンス2世、ベネディクトゥス16世の3人のみである。
同じ年に亡くなった人物
- エドワード・アシリング (1057年没)
- ルノー1世 (ブルゴーニュ伯) (1057年没)
- オッドーネ・ディ・サヴォイア (1057年没)
- アル=マアッリー (1057年没)
- オットー3世 (シュヴァーベン大公) (1057年没)
同じ地域に関係する人物
- グイード・ダレッツォ (1050年没)
- ガイウス・マエケナス (紀元前8年没)
- ピエロ・デラ・フランチェスカ (1492年没)
- リーチオ・ジェッリ (2015年没)
- ロベルト・アサジオリ (1974年没)