伝記
マウドゥードは、ガズナ朝のスルタンで、1041年から没年まで在位した。シャハーブ・アッダウラの称号を持ち、ガズナのマウドゥードの名で知られる。1020年にガズナで生まれたとされ、没年は1049年とも1050年ともいわれる。父はマスウード1世である。1038年に父から帝国の後継者と宣言され、セルジューク朝やカラハン朝との戦いでは父を助けた。しかし1040年のダンダナカンの戦いでマスウードはセルジューク朝に敗れ、ホラーサーンを離れてインドへ向かおうとした。その途中で自軍の兵に捕らえられ、弟のムハンマドが代わって擁立され、マスウードはムハンマドの命で殺された。
そのころマウドゥードは、父の宰相アフマド・シーラーズィーとともにバルフにいた。彼はムハンマドの領地に攻め入り、1041年にジャラーラーバードでムハンマドを破って殺し、父の仇を討った。一説には、ムハンマドをインド方面まで追い、シンド川のほとりでの戦いで捕らえたうえ、一族の多くも処刑させたといわれる。勝利を記念してファトハーバードの町を建てたとも伝えられる。こうして、反抗する兄弟マジュドゥードのいたラホールを除く全領域の主となった。シーラーズィーを宰相に、アブー・サフル・ザウザニーを書記長官に任じた。
1042年にはセルジューク朝の領内へ攻め込み、バルフとヘラートを一時占領した。この成功で名声が高まり、カラハン朝のボリティギンは彼を宗主と認めた。1043年にはシーラーズィーが信任を失い、アブドゥッラッザーク・マイマンディーが宰相に代わった。同じころ、スィースターンの反乱は、彼の軍事奴隷トゥグリルによって鎮められた。1043年か翌年にはトハリスターンに侵攻したが、セルジューク朝の王子アルプ・アルスラーンに撃退された。スィースターンにも軍を送ったが成果はなく、この地はセルジューク朝の従属国となり、ガズナ朝の境界はボストまでに狭まった。1047年にはホラーサーンとバルフをセルジューク朝に譲らねばならなかったともされる。
インド方面では、1043年8月11日の兄弟マジュドゥードの死に乗じてラホールを押さえた。続いてムルターンに進んでイスマーイール派を退け、ムルターンは降伏して、金曜礼拝の説教はファーティマ朝ではなくアッバース朝のカリフの名で読まれるようになった。マスウードの廃位はインドの諸勢力に攻勢の機会を与えた。カーブル・シャーの孫サンダンパールは諸侯の連合軍でラホールを攻めたが、敗れて殺された。1043年から翌年にかけては、トマラ朝のマヒーパールが率いる三人のヒンドゥー教徒の君侯の連合軍が、ハーンシー、ナガルコート、ターネーサルなどを奪い、ラホールを包囲したが、これも撃退された。
マウドゥードは勇敢で行動力があったが、情熱に流されやすく、宰相や将軍をたびたび替え、忠実な臣下にも不当で恩知らずだったといわれる。このため不満を持つ者が増え、各地で反乱も起こったとされる。1050年ごろ、ボリティギンの援助と、旧カークーヤ朝のガルシャースプ1世が送った軍を得て、ふたたびホラーサーンへの侵攻を図った。ボリティギンとその将軍カシュガはホラズムとテルメズに攻め入ったが、マウドゥードが急死して侵攻は失敗した。その後セルジューク朝はヴァフシュ川まで支配を広げ、ボリティギンはガズナ朝を宗主と認めなくなったらしい。跡は息子のマスウード2世が継いだ。治世にはカーブース・ナーマの著者カイカーウースが7、8年ほど宮廷に客として滞在した。
同じ年に亡くなった人物
- アイルランガ王 (1049年)
- ディルク4世 (ホラント伯) (1049年没)
- アブー・サイード・ビン・アビー・ル・ハイル (1049年没)
- エルメシンダ・デ・ビゴーラ (1049年没)
- ウスタシュ1世 (1049年没)
同じ地域に関係する人物
- マフムード (ガズナ朝) (1030年没)
- アブー・ナスル・マンスール (1036年没)
- ウンスリー (1039年没)
- ハムザ・ビン・ラーディン (2019年没)
- アブドゥルアリー・マザーリー (1996年没)