伝記
ディルク4世は、1039年から1049年まで在位したホラント伯である。生年月日は不明で、1020年ごろとも1030年ごろともいわれる。1049年に死去したとき「青年」だったと記されることから、1030年ごろの生まれとみられている。父はホラント伯ディルク3世、母はノルトマルクのオテリンディスである。拠点は、父ディルク3世がフラールディンゲンに築いた要塞であった。同時代の年代記作者は、ディルク4世をラテン語で「フラールディルティンガのテオデリクス」と呼び、その辺境伯とした。領地の正確な範囲は不明だが、一時期は北は少なくともラインスブルフまで、東はほぼアールブルフまで広がっていた。ディルクは、ホラントとユトレヒトの低地の泥炭地帯を開発して植民地化し、父の方針を引き継いで領地を広げた。その結果、ユトレヒトの司教や周辺の司教、修道院と衝突することになった。
ほどなくフランドル伯ボードゥアン5世との戦いも起こった。原因は、ゼーラントのスヘルデ川以西にあたるゼイトベーフェラント一帯の権利をボードゥアンが主張したことにあったらしい。当時の年代記はこの点をほとんど語らず、フランドル伯が敵を破って意気揚々と領地に戻ったと述べるだけである。この敗北を受け、ユトレヒト司教は皇帝ハインリヒ3世に助けを求めた。皇帝は1046年に自ら艦隊を率いて遠征し、ラインスブルフ、フラールディンゲンなどの拠点を破壊した。ディルクは占領していた地域のいくつかを返還せざるをえなくなった。
ところが皇帝が去ると、ディルクはユトレヒトとリエージュの司教の領土を略奪し始め、ロートリンゲン公ゴットフリート3世と結んだ。エノー伯、フランドル伯とも同盟したという。公は皇帝に背いてナイメーヘンを攻め、帝国の宮殿を焼いたとされる。1047年、皇帝は再び遠征し、破壊されていたラインスブルフの要塞を占領した。しかし退却のさなかに帝国軍は深刻な損害を受け、ディルクの味方の諸侯は公然と反乱に踏み切った。また、艦隊がフラールディンゲンの沖に来たところでディルクが軽い船で奇襲し、皇帝が船の大半を失ってユトレヒトへ逃れたとも伝えられる。ディルクはこの勝利に乗じてドルドレヒトを取り戻し、奪われていた領地も回復したという。
1048年、リエージュで開かれた馬上槍試合に招かれたディルクは、誤ってケルン司教の弟を槍で傷つけ、死なせてしまったとされる。復讐に燃えたリエージュとケルンの司教の手勢が襲いかかり、ディルクの異母兄弟二人が命を落とし、本人はドルドレヒトへ逃げ帰った。ディルクはドルドレヒトの港にあったケルンとリエージュの商船を焼き、両司教の臣民との交易を禁じ、商人たちを町から追い出して罰金を取った。両司教はユトレヒトとメッツの司教やブランデンブルク辺境伯を引き込み、冬の氷を利用してドルドレヒトに迫った。町は一部の貴族の裏切りで彼らの手に落ちた。ディルクは兵を集め、ヘラルト・ファン・プッテンが要塞の門をひそかに開けたのに乗じて町を取り返し、敵を追い出した。
しかしこの勝利は命取りになった。翌日、城壁を歩いていたところ、ケルン司教の兵が隠れた場所から放った毒矢が太ももに当たり、三日後に息を引き取ったという。別の伝えでは、1049年1月13日にユトレヒト、リエージュ、メッツの司教たちの手勢にドルドレヒト近くで待ち伏せされ、殺害されたとされる。ディルクは未婚で子がなく、弟のフロリス1世が伯位を継いだ。事件が起きた通りは、のちまで「伯の通り」を意味する名で呼ばれているという。
同じ年に亡くなった人物
- ウスタシュ1世 (1049年没)
- オディロ (1049年没)
- エルメシンダ・デ・ビゴーラ (1049年没)
- アブー・サイード・ビン・アビー・ル・ハイル (1049年没)
- アイルランガ王 (1049年)
同じ地域に関係する人物
- ウィット・コルネリスゾーン・デ・ワイズ (1658年没)
- ヨーハン・ファン・オルデンバルネフェルト (1619年没)
- Kees Mijnders (2002年没)
- J.J.P.アウト (1963年没)
- ヨアネス・デ・ラエ (1649年没)