伝記
エレトリアのメネデモスは、紀元前345年または344年ごろから紀元前261年または260年ごろまで生きたギリシアの哲学者で、エレトリア学派の創始者である。生まれはエウボイア島のエレトリアで、宗教上の大きな権威を持つ名門テオプロピダイ家の出だったが、家は彼の時代には貧しくなっていた。父はクレイステネスで、メネデモスも父と同じく建築や天幕づくりを仕事とした。哲学上の見解は、のちの著述家が書き留めた断片的な言葉のほかには残っていない。
エレトリアの軍勢の一員としてメガラに送られたのは、おそらくラミア戦争中の紀元前323年から紀元前322年のことで、そこからアテナイのプラトンのアカデメイアに赴き、哲学に身を捧げようと決めた。メガラではフレイウスのアスクレピアデスと生涯の友情を結び、昼に哲学を学ぶため、夜に働いたという。やがて二人はエリスに行き、パイドンの流れをくむアンキピュロスとモスコスに学んだ。その後メネデモスはスティルポンに、さらに別の師に学び、その学派をエレトリアに移したため、学派は以後エレトリア学派と呼ばれた。紀元前310年ごろには、アスクレピアデスとともにキプロスのサラミスを訪れ、ニコクレオン王の宮廷に滞在した。
哲学のかたわら、メネデモスは後継者たちの時代から死ぬまで、故郷の政治で指導的な役割を担った。紀元前300年ごろには市の政界で目立つ存在となり、すでに往時の重要性を失っていたエレトリアの独立のために運動し、数多くの使節団に同行したという。この間にエウボイアを支配していたマケドニア王アンティゴノス2世ゴナタスと親しくなった。その友情のために忠誠を疑われ、まずオロポスのアンピアラオス神殿に身を寄せ、のちにアンティゴノスのもとへ行き、その宮廷で悲しみのうちに死んだと伝えられる。別の説では、アンティゴノスに故郷の解放を認めさせることに失敗し、食を断って自らの命を絶ったとされる。きわめて真面目で重々しく厳しい人物で、その様子は牛にたとえられたという。その厳しさから「犬」とあだ名されたともいい、語る言葉は難解だと評する者もあった。ディアドコイの一人デメトリオスに働きかけ、ポリスが毎年納める貢納を軽くさせたことで故郷では名を高めた。プトレマイオス1世の宮廷に送られたときは、きわめて誠実に振る舞ったとされる。政治家ペルセウスを終生の好敵手とし、晩年には故郷の元老院の最高の地位に就いたという。
私生活では、ディオゲネス・ラエルティオスによれば、年上の友アスクレピアデスの妻の母と結婚した。アスクレピアデスの妻が亡くなると、アスクレピアデスは自分の妻をメネデモスに譲り、より裕福な女性と結婚して三人の娘をもうけたという。メネデモスの最初の妻は家事を取り仕切り続けた。詩人のソロイのアラトス、カルキスのリュコプロン、ロドスのアンタゴラスと親しく、ヘラクレイアのディオニュシオスとアンティゴノス2世ゴナタスはその弟子だった可能性があるとされる。
思想については、プラトン主義者だったとする記述もあれば、プラトンよりスティルポンを好んだとする記述もある。善を有益と同一視することを拒み、否定命題には価値がなく、肯定だけが真理を表せると考えた。倫理では、徳は呼び名が何であれ一つであり、知的なものだと考えたという。著作は残さず、エレトリア学派は短く目立たない存続ののちに消えた。
同じ年に亡くなった人物
- クィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲス (紀元前292年の執政官) (紀元前 264年)
同じ地域に関係する人物
- デモクリトス (紀元前370年代没)
- Lysis of Taras (紀元前347)
- テーバイのアリステイデス (紀元前360)
- キュナネ (紀元前322)
- リュサンドロス (提督) (紀元前395年没)