伝記
ミトリダテス1世は、アナトリアのポントス王国を興した人物で、「創建者」を意味するクティステスの名で呼ばれる。キオスの統治者としては3代目にあたるため、キオスのミトリダテス3世とも呼ばれ、ペルシア人の貴族であった。在位は紀元前281年から紀元前266年とされるが、別の記述では紀元前302年から紀元前266年とされ、治世は36年に及んだという。
デメトリオス・ポリオルケテスと同年齢だったといわれ、そうだとすれば生まれは紀元前330年代の半ばとなる。父はキオスのミトリダテス2世である。紀元前302年か紀元前301年、後継者の一人アンティゴノスは、ミトリダテス2世を処刑した直後に、家の領地を継いだ若者を疑い、殺そうと計画した。アンティゴノスは、若者が黄金の収穫を盗んで黒海へ逃げる夢を見たことで彼を遠ざけるようになったともいう。しかしミトリダテスはデメトリオスから企みを事前に知らされ、数人の従者とともにパフラゴニアへ逃れ、キミアタという堅固な要塞に拠った。
そこへ各地から多くの兵が集まり、ミトリダテスは少しずつポントスでの支配地を広げて、新しい王国の基礎を築いた。アンティゴノスとデメトリオスの軍がイプソスで敗れたのちも領土を広げ、セレウコス朝と20年ほど戦い続けたともいわれる。王国が興ったとみなせるのは紀元前281年ごろで、この年ミトリダテスは王(バシレウス)の称号を名乗った。同じ年、ビテュニアのヘラクレイア・ポンティカとセレウコスから守るための同盟を結んだ。のちには、プトレマイオス朝エジプトの王が差し向けた軍勢を打ち破るため、のちに小アジアに定住するガリア人の支援を得たという。記録に残る治世の出来事はこれらにとどまる。
ミトリダテスの跡は子のアリオバルザネスが継いだ。遺体は王国の首都アマセイア近くの王墓に葬られたらしく、紀元前183年にシノペが陥落するまで、ポントスの歴代の王はみな彼のそばに葬られたという。
家系については、アッピアノスは、ダレイオス大王のもとの最初のポントス総督から数えて8代目、ミトリダテス・エウパトルから数えてさかのぼって6代目と述べる。ところがプルタルコスは、ローマに服属するまでにミトリダテス1世の子孫から8代の王が続いたと記しており、この点には争いがある。
同じ年に亡くなった人物
- アレウス1世 (紀元前265年没)
同じ地域に関係する人物
- ポントスのアリオバルザネス (紀元前249)
- 聖テオドーロ (306年没)
- Dukakinzade Ahmed Pasha (1515年没)
- ハディム・アリ・パシャ (1511年没)
- セレフェディン・サボンジュール (1468年没)