HISTORICAL PERSON · 紀元前265年没

アレウス1世

エピロス王ピュロスのスパルタ侵攻を撃退して追撃し、ピュロスを戦死させた。硬貨に自身の肖像を刻んだ最初のスパルタ王でもある。

生涯
紀元前265年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

アレウス1世は、紀元前309年から紀元前265年までスパルタを治めたアギス朝の王である。アクロタトスの子で、先王クレオメネス2世の孫にあたる。生年は紀元前320年ごろとも、紀元前312年に父がシチリアでの任務から戻った直後ともいわれる。クレオメネスの治世が非常に長かったため、父アクロタトスは王に先立って死に、アレウスが祖父の跡を継いだ。

即位の経緯については、アレウスがまだ幼かったので、クレオメネスの次男クレオニュモスが甥の王位継承に異を唱えたが、長老会が従来どおりの直系相続を支持してアレウスを王とした、と伝えられる。ただしこの話は、のちのアレウスとクレオニュモスの対立を踏まえた後世の作り話かもしれず、王位争いは通常は長老会ではなく市民の民会で決められたという指摘もある。クレオニュモスは摂政となり、治世の前半で大きな力を持った。紀元前303年には、スパルタの公式な支持を得て傭兵軍を率い、ルカニア人やローマ共和国と戦うタレントゥムを助けに赴いた。アレウスの動きが史料に初めて現れるのは紀元前281年であり、それ以前のことは分かっていない。

紀元前281年から紀元前280年にかけて、後継者戦争はリュシマコスとセレウコスの死で終わりを迎え、ギリシアの多くの都市は新たなマケドニア王アンティゴノス・ゴナタスからの独立を試みた。アレウスはペロポネソスの軍を率い、マケドニアの同盟者であるアイトリア同盟に侵攻したが、敗れた。紀元前275年にはクレオニュモスがエピロス王ピュロスのもとへ走った。紀元前272年、ピュロスは歩兵2万5000、騎兵2000、戦象24頭を率い、「アンティゴノスへの隷属から諸都市を解放する」と称してラコニアに侵攻し、スパルタを包囲した。このときアレウスはクレタに遠征中で不在だったが、女性を含む市民が一丸となって塹壕を掘り、初日の攻撃をしのいだ。2日目の終わりにアレウスが2000の兵を率いて戻り、ピュロスを撃退した。アレウスは撤退する軍を追い続けてピュロスの息子を戦死させ、アルゴスではアンティゴノスとともに戦い、ピュロスは戦死した。この名声により、アレウスは紀元前366年にエパメイノンダスが解散させたペロポネソス同盟を再び結成した。

紀元前267年には、アテナイやプトレマイオス朝エジプトと結んでアンティゴノス2世に対抗した。これがクレモニデス戦争である。アンティゴノスがアテナイを包囲するとアレウスは救援に向かったが、プトレマイオス朝の将軍パトロクロスから敵を攻撃するよう求められても、食料が尽きており、他人のために危険を冒すのは得策でないと考えて撤退した。戦争はスパルタを中心とするギリシア側にとって惨憺たる結果となり、紀元前265年、アレウスはコリントス近郊で小クラテロスとの戦いに敗れて戦死した。王位は子のアクロタトスが継いだ。

アレウスは、ヘレニズム期の君主のように振る舞った王でもあった。自身の肖像や業績を硬貨や碑文に刻み、それまで禁じられていた貨幣をスパルタで初めて鋳造したとされる。有名な芸術家がスパルタに現れたのも数世紀ぶりで、アレウスの庇護によるらしく、市最初の劇場も彼が建てたと考えられる。こうした姿勢は国際的な名声をもたらした一方、もう一方の王家エウリュポン朝の王たちを影に追いやり、国制を変えてしまった。また、ユダヤ人傭兵を集めやすくするために、ユダヤ人と祖先を共有すると主張したともいわれるが、その実態には異論がある。

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