HISTORICAL PERSON · 1045年没

Bruno

1027年から皇帝コンラート2世のイタリア帝国尚書を務め、1034年からヴュルツブルク司教。ハインリヒ3世のためアグネスに求婚し、ヴュルツブルク大聖堂の礎石を置いた。遠征中の事故で没した。

生涯
1045年没
死亡地
オーストリア共和国(ニーダーエスターライヒ州 / ペルゼンボイク=ゴッツドルフ)
出生地
—
出典
世界地図
オーストリア共和国(ニーダーエスターライヒ州)

伝記

ブルーノ(ヴュルツブルク司教)は、1005年ごろに生まれ、1045年5月27日に没した聖職者である。カリンティア公コンラート1世とシュヴァーベンのマティルデの子で、サリー朝の皇帝コンラート2世とはいとこの関係にあった。ケルンテンのブルーノとも呼ばれる。

1027年から1034年まで、コンラート2世のもとでイタリア担当の帝国尚書を務め、1034年からは死去するまでヴュルツブルクの司教侯の座にあった。皇帝の子で後継者となるハインリヒ3世のために、ポワトゥーのアグネスに求婚する役目も果たしたとされる。皇帝家の近親として、政治の中枢に近い立場にあった人物である。

司教としては大聖堂の建設に力を注いだ。当時は各地で多くの大聖堂が建てられており、ブルーノも1040年からヴュルツブルク大聖堂の建設を始め、礎石を据えたという。1042年には、修道院長ヴィレムントが再建した聖ブルヒャルト修道院の献堂も行った。

1045年、ブルーノはハインリヒ3世の第2次ハンガリー遠征に随行した。その途上、一行はドナウ川沿いのペルゼンボイクにある、エーバースベルク伯夫人リヒリンデの館に立ち寄った。夫のアーダルベロ2世伯が亡くなったばかりで、夫人はその遺産の分配に当たっていた。大宴会のさなか、広間を支える柱が折れて床全体が崩れ落ちた。王は軽傷で済んだが、夫人、ブルーノ、エーバースベルク修道院長アルトマンは重傷を負い、数日ののちに亡くなった。ニーダーアルタイヒ年代記には伝説も添えられている。宴の前、グライン近くのドナウ川のシュトルーデンガウで悪魔が司教の前に現れて脅したが、司教はこれを退けたというのである。

遺体はヴュルツブルクの居所へ戻された。1045年6月16日の地下聖堂の献堂は、その埋葬と合わせて行われた。後継の司教には甥のアーダルベロが就いた。ブルーノは教会から正式に列聖されてはいないが、聖人として崇敬されている。祝日は5月17日とも27日ともいわれる。詩編の注解書「詩編注解」は、広くブルーノの著作とされている。教父たちの著作からの抜粋を中心とする注釈つきの詩編で、写本や初期の印刷本として何度も複製され、注釈つき詩編としては異例の人気を得た。

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