伝記
ラートボト・フォン・クレットガウは、985年ごろに生まれ、1045年(6月30日とされる)に没した、シュヴァーベンのクレットガウの伯である。ハプスブルク伯とも呼ばれ、のちに長く続くハプスブルク家の祖の一人とされる。彼が建てた城の名が、家名の由来となった。父はランツェリンで、ラートボトはその次男であった。祖父は金満公と呼ばれたグントラムで、母はテュルガウ伯の娘で、名をルイトガルトといったとされ、ラートボトは母から現在のトゥルガウ州やアールガウ州にあたる地の所領を受け継いだ。一族の領地は、現在のドイツ南端にあった。シュトラースブルク司教のヴェルナーは兄(叔父ともされる)にあたり、弟にはオットマースハイム修道院を創建したルドルフがいた。ヴェルナー司教は1028年に没している。クレットガウの伯となったラートボトは、叔父が追放されて間もなく、アルザスやシュヴァーベン、アールガウに広大な所領を得ることができたという。
1010年、ラートボトはイーダ(イータ)と結婚した。イーダはメッツ伯アダルベルト2世と、シュヴァーベン大公コンラート1世の娘ユーディトの間の娘とされるが、上ロレーヌ公フリードリヒの娘とする説もある。結婚によって、持参金としてシュヴァーベンやアルザスにある所領が加わり、多額の財産も得たといわれる。夫妻には、ザウンドガウ伯となったオットー、ハプスブルクに拠ったアルベルト、のちにハプスブルク伯となるヴェルナー、リヒェンツァなどの子が生まれた。リヒェンツァはレンツブルク伯に嫁いだ。オットーは1045年から1055年の間に殺されたとされ、ストラスブールの大聖堂に葬られた。アルベルトはユナングで没し、ムーリ修道院に葬られた。リヒェンツァの夫はレンツブルク伯ウルリヒ2世で、リヒェンツァもムーリ修道院に葬られた。ラートボトの生涯には、さらに城の建設と修道院の創建という大きな事業があった。
1020年から1030年ごろ、おおよそ1025年ごろともされる時期に、ラートボトはハビヒツブルク城を築いた。ハビヒツブルクとは「鷹の城」の意味である。これは広大な城ではなく、防御のための簡素な塔であったともいい、のちにハプスブルク城と呼ばれるようになった。伝承によれば、ラートボトは城に見張り塔も城壁も設けなかったため、兄のヴェルナー司教に厳しくとがめられた。そこで一晩のうちに備えを固めると賭けをし、翌朝、司教が窓から外を見ると、城のまわりを家臣たちが取り囲んでいた。重装の騎士たちが塔のように並んでいたという。
1027年、ラートボトは妻とともに、スイスのムーリにベネディクト会の修道院を創建した。修道院にはアインジーデルン修道院の修道士が入った。この創建は妻イーダの願いによるもので、罪を償う行いであったと伝えられるが、何を償うためだったのかはわかっていない。創建者の一族は、修道院に対して、一族の私有の教会としての支配権を最初から握っていた。初代の管長レギンボルトが修道院の内外の建設を進め、創建者夫妻はこれを力強く支えたという。三廊式のロマネスク様式の大聖堂は、夫妻の没後の1064年に、コンスタンツ司教ルモルトによって聖別された。
ラートボトは1045年に死去した。病気とも、暗殺ともいわれる。妻とともにムーリ修道院の教会の十字架祭壇の前に葬られた。所領はまず息子のアルベルトが継ぎ、その没後は次男のヴェルナーに渡ったともされ、ヴェルナー1世がハプスブルク家を継いだとも伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- Sigfrid of Sweden (1045年没)
- ライヌルフ (1045年没)
- 後朱雀天皇 (1045年没)
- Bruno (1045年没)
- ヘマ・フォン・グルク (1045年)
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