伝記
ナースィル・ハサンは、エジプトを支配したバフリー・マムルーク朝のスルタンで、1347年から1351年と1354年から1361年の2度にわたって在位した人物である。1334年か1335年にカイロで生まれたともいい、1336年生まれとする説もある。父は第15代スルタンのナースィル・ムハンマド、母はタタール人の妻クダで、母は彼が幼いうちに亡くなり、カイロの城塞で義母のハワンド・ウルドキンに育てられた。生まれたときの名はカマリといい、即位に際して名をハサンに改めた。トルコ系のマムルークたちと距離を置く意味があったといわれる。
1341年に父が亡くなると、息子たちが次々にスルタンの位に就いたが、実権はしばしば父の側近であったアミールたちが握っていた。1347年12月、異母兄のムザッファル・ハーッジーがチェルケス系のマムルークとの衝突で死ぬと、ハサンは12歳で即位した。上級のアミールたちは、マムルークたちが推していた別の兄弟アムジャド・フサインを退けて、急いでハサンを立てた。実権は、ナーイブのバイブガー、その弟で官房長官のマンジャク、シャイフー、ターズの4人のアミールが握り、ハサンは儀礼的な役割にとどまった。即位した最初の年には、ペストがエジプトで広がり、1348年10月から12月に頂点に達して、1349年2月に終わった。経済的にも大きな打撃を受けた。1350年、ハサンは4人の大法官を集め、自分はもう成年に達したので後見は要らないと告げて実権を取り戻そうとし、マンジャクを宰相と官房長官から罷免した。しかし数か月後、ターズによって抑えられた。
1351年8月、ターズの策動で、ハサンは異母弟のサーリフ・サーリフに位を譲らされ、城塞のハレムにある義母の居室に幽閉された。幽閉中は、余暇に神学を学び、とくにシャーフィイー派の学者バイハキーの著作を読んだという。アラビア語に長け、歴代のスルタンに比べて教養のある人物であった。1354年、シャイフーとサルギトミシュらがサーリフ・サーリフを廃位し、ハサンは復位した。2度目の治世でも実権を取り戻そうと動き、有力なアミールたちを投獄や追放、処刑によって次第に政権から取り除いていった。1357年にシャイフーが暗殺され、翌1358年にはサルギトミシュを逮捕して政治の実権を握った。マムルークの多くに代えて、より信頼でき有能で民衆にも好まれると考えたマムルークの子孫たちを登用し、一族や配下に、アミールの地位や徴税権を与えて権力の強化を図った。
2度目の治世には、カイロにスルタン・ハサン・モスク・マドラサの複合施設を造り始め、エルサレム、ガザ、ダマスクスでも宗教施設などを建て、モスクを大量に建立したことで知られる。容姿端麗な人物でもあった。妻のトゥルビーヤ(1363年没)との間に11人の息子と6人の娘がいたとされる。1361年3月17日、配下のヤルバガに暗殺された。26歳であった。ヤルバガは、マムルークの子孫の登用に反対する一派の長であったとされる。後を、甥のマンスール・ムハンマド(ムザッファル・ハーッジーの子)が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンリー・オブ・グロスモント (初代ランカスター公) (1361年没)
- ブランカ・デ・ボルボーン (1339-1361) (1361年没)
- インゲビョルグ・アヴ・ノルゲ (1361年没)
- ルートヴィヒ5世 (バイエルン公) (1361年没)
- フィリップ1世 (ブルゴーニュ公) (1361年没)
同じ地域に関係する人物
- バドル・アル=ジャマーリ (1094年没)
- ザーヒル (1036年没)
- オギュスト・マリエット (1881年没)
- Latifa al-Zayyat (1996年没)
- ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルト (1817年没)