伝記
ギヨーム3世は、970年ごろまたは975年ごろに生まれ、1037年に没したトゥールーズ伯である。アルビ伯とケルシー伯も兼ね、972年または978年から1037年まで在位したとされる。「タイユフェール」の通称で知られる。トゥールーズ伯として「侯(マルキオ)」の称号を帯びた最初の人物で、この称号は975年ごろ、ルエルグ伯レーモン2世から継承したものだった。
出自については、長く誤りがあったとされる。かつては、ベネディクト会士らの説に従い、レーモン3世・ポンスとガルサンドの息子とされた。しかしこの説では、レーモン・ポンスが942年から1037年まで、およそ1世紀にわたってトゥールーズを治めたことになってしまう。また942年から980年の間には、レーモンという名の伯が少なくとも2人、ユーグという名の伯もおそらく1人、同時代の文書に現れる。そこで近年の研究は、ギヨーム3世を、「ゴティアの侯」レーモンと結婚したアデライード・ダンジューの息子とする。両親は975年に結婚し、彼はその後まもなく生まれた。母は982年に後のフランス王ルイ5世と再婚したが984年に離婚し、さらにプロヴァンス伯ギヨーム1世と再婚した。この発見により、レーモン・ポンスからギヨーム3世までのトゥールーズ伯の継承を再検討する必要が生じたが、学界の統一見解は得られていない。
ギヨームとその家臣は、教会の所有物を奪ったことで悪名が高かった。レザ修道院から奪った財産は、1015年から1025年の間に返還している。教皇ヨハネス19世は、家臣がモワサックの領地を奪うのをやめさせるよう命じた。この問題は、のちに息子ポンスがモワサックをクリュニー修道院に寄進して決着した。1018年、異父弟(母アデライードの再婚相手の子)にあたるプロヴァンス伯ギヨーム2世がフォス包囲の際に戦死し、幼い3人の子が残された。ほかの領主たちが反乱を起こし、孫たちの身を案じた母アデライードがギヨームに助けを求めた。ギヨームはベサルー伯ベルナト・タイユフェールとともに、1021年から1023年にかけて甥たちを助けに赴き、反乱した領主たちを従わせた。このときギヨームは、すでに別の家系のプロヴァンス女伯と再婚していた。ベルナトは、この途上でローヌ川を渡る際に溺れ死んだ。
ギヨームは西ラングドックで最も有力な諸侯となった。カペー朝の台頭によって南部での王権が後退する時期にあたる。彼は「トゥールーズ地方の首長辺境伯(マルキオ・プレファトゥス)」という称号を生み出した。1019年ごろ、プロヴァンス伯ルボー2世の娘エマと再婚してプロヴァンス伯位と領地を手に入れたため、影響力はラングドックからナルボネンシス、さらに妃の代理としてプロヴァンスにまで及んだ。一方で、本拠のトゥールーズでは、地元の貴族と聖職者の評議会に求められ、市場に課していた税を放棄せざるをえなかった。
最初の妻は出自不明のアルサンドで、レーモンとアンリの男子をもうけたが、ともに若くして死んだ。エマはプロヴァンス伯ルボー2世とエルマンガルドの娘で、プロヴァンスのギヨームの姪にあたる。二人の間には、のちにトゥールーズ伯となるポンス(1019年から1060年)と、フォルカルキエ伯ベルトラン1世が生まれた。庶出の娘もいる。トゥールーズのサン・セルナン聖堂にある「紀元千年の伯」の石棺は、その後の研究により、ギヨーム3世のものとは考えられなくなっている。
同じ年に亡くなった人物
- ベルムード3世 (1037年没)
- ロベール2世 (ルーアン大司教) (1037年没)
- イブン・ターヒル・アッ=バグダーディー (1037年没)
- イブン・スィーナー (1037年没)
- Vazul (1037年没)
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