伝記
イブン・スィーナーは、ペルシアの哲学者、医者、科学者である。980年8月末に、サーマーン朝の徴税官アブドゥッラーフとその妻シタラの子として、首都ブハラ近郊のアフシャナに生まれた。西洋ではアヴィセンナの名で知られ、イスラーム世界が生んだ最高の知識人と評される。「第二のアリストテレス」とも呼ばれ、アリストテレス哲学と新プラトン主義を結びつけて、ヨーロッパの医学と哲学に大きな影響を与えた。その生涯は幸福と苦難が入り交じった波乱に満ちたものであった。
5歳のときに一家はブハラに移り、私塾に入れられた。幼いころからクルアーンを学び、10歳ですでに文学作品とクルアーンを暗誦できたという。野菜商人のもとで算術を、ホラズム出身の哲学者ナティリのもとで哲学、天文学、論理学などを学び、ユークリッド幾何学とプトレマイオスの天文学を教わって、間もなく師の学識を上回った。16歳の時にはすでに患者を診療しており、後年、医学は「さして難しい学問ではなく、ごく短い時間で習得できた」と自伝で述べている。一方、アリストテレスの『形而上学』は40回読んでも理解できなかったが、ブハラのバザールで店員に強く勧められて買ったファーラービーの注釈書がきっかけで、ようやく修得できたという。
無料で診療を行って経験を積み、名声を高めた彼は、サーマーン朝の君主の病を治して信任を得、王室図書館の利用を許された。そこに収められた稀覯書を読み尽くし、18歳までにすべての学問を修めたと自ら語るほどになった。999年にサーマーン朝が滅び、同じ年に父が没すると、生計を立てることが難しくなり、22歳ごろにブハラを去って放浪の旅に出て、二度と戻らなかった。
ホラズムで君主マームーン2世に仕え、法律顧問として活躍する傍ら、『医学典範』の執筆を始めた。しかし、ガズナ朝のマフムードが学者たちに出仕を求めると、彼はこれを拒み、マームーン2世が与えた路銀と案内人を頼りにホラズムを離れた。マフムードは怒り、各地の王侯に彼の捜索を求めた。ジュルジャーンに落ち着き、愛弟子アル・ジュジャニーと出会い、彼は師の伝記を書いた。ハマダーンでは君主シャムス・ウッダウラの侍医となり、宰相にも起用されて、昼は政務、夜は研究と講義に励み、1020年に『医学典範』を完成させた。
1021年にシャムス・ウッダウラが没すると官職を辞して隠棲したが、新しい君主に投獄された。釈放後は托鉢僧に扮してイスファハーンに移り、君主アラー・ウッダウラの宰相に登用され、遠征にも随行して、馬上で口述筆記をさせて著作を進めた。1030年にはガズナ朝の攻撃を受けて蔵書を含む所有物を奪われ、『公正な判断の書』が散逸した。1037年、遠征に同行する途中で病に倒れ、死の2週間前には治療を拒んで貧者に施しをし、奴隷を解放し、毎日クルアーンを読んだと伝えられる。同年6月18日、ハマダーンで没した。死因は胃癌とも赤痢ともいわれる。
王侯貴族にも気兼ねなく話しかける大雑把な性格で、世俗の愉しみをよく知る人でもあり、その生活や尊大さが反感を買って、思想は多くの論争を呼んだ。しかし敬虔なイスラーム教徒でもあり、保守的な神学者や法学者からの批判を避けるために、信心を示す四行詩を書いたという。後世には、ガザーリーらが神学の立場から、イブン・ルシュドがアリストテレス主義の立場から彼を批判したが、トゥースィーらは思想を支持した。その思想はキリスト教世界にも紹介され、13世紀のスコラ学の発展に大きな影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- ベルムード3世 (1037年没)
- ファッルヒー・スィースターニー (1037年没)
- ロベール2世 (ルーアン大司教) (1037年没)
- ボレスラフ3世 (1037年没)
- Vazul (1037年没)
同じ地域に関係する人物
- トゥグリル2世 (1134年没)
- ペイトン (紀元前316年没)
- パルメニオン (紀元前330年没)
- マスウード (イラク・セルジューク朝) (1152年没)
- アンティオコス7世シデテス (紀元前129年没)