HISTORICAL PERSON · 1897年没

リジューのテレーズ

19世紀フランスのカルメル会修道女で、聖人・教会博士の一人。15歳で教皇に入会を願い、16歳で入会したが、結核のため24歳で亡くなった。死後に自叙伝が出版されて名が広まり、1925年に列聖された。

生涯
1897年没
死亡地
フランス共和国(カルヴァドス県 / リジュー)
出生地
フランス共和国(アランソン)
出典
世界地図
フランス共和国(カルヴァドス県)

伝記

リジューのテレーズは、1873年1月2日にフランスのアランソンで生まれ、1897年9月30日に没した19世紀フランスのカルメル会修道女である。本名はマリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタン、修道名は「幼きイエスと尊き面影のテレーズ」で、「小さき花のテレジア」とも呼ばれる。カトリック教会の聖人であり、教会博士の一人である。父ルイは時計屋を営み、母ゼリーは腕のいいレース職人だった。夫妻はともに信仰が厚く、かつて修道生活を望んでいたこともあり、のちにともに列聖された。9人の子が生まれたが、結核などのため4人が夭逝し、マリー、ポリーヌ、レオニー、セリーヌ、テレーズの5人の娘が育った。テレーズは末っ子で、感受性が強く、誰からも愛される子供だった。

4歳のとき、もともと体の弱かった母が病死し、父は店をたたんで娘たちを連れ、母の実家ゲラン家のあるノルマンディーのリジューへ移った。1882年、9歳のテレーズにとって母代わりだった次姉ポリーヌが、リジューのカルメル会修道院に入った。母に次いで、第二の母を失った経験は大きな影響を与え、このころから修道女になりたいという希望を繰り返し訴えるようになった。1886年にマリーとレオニーも修道院に入ると、その望みは強まった。10歳のとき突如体調不良を訴えたが、姉たちが聖母像の前でひざまずいて祈るなか、聖霊降臨祭の日に聖母像が微笑むのを目撃し、直後に全快したという。1887年、14歳でカルメル会入会を願ったが、父は許した一方、修道院の院長や指導司祭、バイユーの司教には、若さを理由に断られた。同年10月、15歳のとき、父や姉たちとローマ巡礼に加わり、教皇レオ13世に謁見して直接、特別許可を願ったが、教皇は、司教と指導司祭の判断に従うよう穏やかに諭した。

司教がようやく許可したため、16歳の1889年4月にカルメル会に入り、「幼きイエスのテレーズ」の修道名を受けた。同年、父が心臓発作に見舞われて療養所に入り、ここで最期の3年を過ごした。1890年9月8日に最初の修道誓願を宣立し、修道名に「聖なる御顔(尊き面影)」の語を付け加えた。1894年7月29日に父が亡くなり、のち姉セリーヌもカルメル会に入ったため、聖母訪問会に入っていたレオニーを含め、5人姉妹全員が修道女になった。従姉妹のマリー・ゲランも入会し、テレーズは副修練長として彼女らを指導した。もともと体が弱く、家族から結核菌を受け継いでいたと思われるテレーズは、1896年4月に喀血し、病勢が進んで、1897年9月30日に姉たちに見守られながら24歳で亡くなった。海外宣教に強い関心があり、インドシナ宣教の望みがあったが、果たされなかった。

自分の天職を「愛」と語り、人の欠点をゆるすこと、惜しみなく愛を与えること、誤解されても相手を責めないことなどを、「完徳」への第一歩と考えた。死の直前に「私は天から薔薇の雨を降らせましょう」と言い残し、死後、そのとりなしによる多くの奇跡が伝えられる。死後に自叙伝『ある霊魂の物語』が出版されて、名がヨーロッパ中に知れ渡った。1925年、死後わずか28年で教皇ピウス11世により列聖されたが、これは50年を経ないと列聖できない条件を、特別に緩和した異例のことだった。1927年に海外宣教者の守護聖人となり、1997年10月19日、教皇ヨハネ・パウロ2世により「教会博士」に加えられた。

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