伝記
マティルダ・オブ・フランダースは、ノルマン朝のイングランド王ウィリアム1世(ノルマンディー公ギヨーム2世)の王妃で、ノルマン征服後の最初のイングランド王妃である。1031年に生まれ、1083年11月2日にカーンで没した。父はフランドル伯ボードゥアン5世、母はフランス王ロベール2世の娘アデルである。父方を通じて、アルフレッド大王とエアルフスウィスの娘エルフスリュスの血を引いていた。
ウィリアムとの結婚については、伝説が語られている。ウィリアムが求婚の使者を送ったところ、マティルダは、高貴な生まれの自分が庶子ごときと結婚するなど考えられないと追い返した。これを聞いたウィリアムはノルマンディーから馬を走らせ、寝室に押し入って彼女をなぐりつけたという。別の説では、教会からの帰りの彼女を、ブルッヘで泥の中に引きずり倒したともいう。父ボードゥアンは激怒したが、マティルダが、そのような真似をする人はよほど勇敢な男に違いないと言ってウィリアムと結婚すると宣言し、事は収まったと伝えられる。しかし多くの歴史家は、実際には両家の政略結婚として穏やかに成立したと考えている。「乱暴な求婚」は、反ノルマンの扇情的な作品にのみ現れるという指摘もある。
二人の結婚には障害があった。ノルマンディー公ロロを共通の先祖にもつ血縁のため、教皇レオ9世が、1049年10月のランスの教会会議で婚姻を禁じたのである。二人は、拒否から4年後の1053年にウーで正式に結婚したともいわれ、1050年か1051年にウーの城で結婚したともいわれる。教皇ニコラウス2世が特免状を与えたのは1059年ともされ、その償いとして、二人はカーンに男女それぞれの修道院を寄進した。マティルダが建てた女子修道院の教会は、聖三位一体に捧げられた。
公妃となったマティルダは、学問のある人々を励まし、夫とともに商業の発展にも取り組んだ寛大な保護者であったようだ。1054年と1057年には、叔父であるフランス王アンリ1世とアンジュー伯ジョフロワ2世の同盟軍が侵攻してきたが、ウィリアムと騎士たちがモルテメールとヴァラヴィルで撃退した。1066年の9月ごろ、ウィリアムがイングランド侵攻を準備していたとき、マティルダは船モラ号を買い、夫に贈ったという。この船は侵攻の旗艦となった。ウィリアムの不在中、ノルマンディーの統治を託され、当時14歳ほどの息子ロベールの名のもとに、うまく治めたとされる。また、夫のイングランド侵攻を称えるバイユーのタペストリーを発案したともされる。
ウィリアムは1066年末にイングランド王となったが、マティルダが新しい王国に赴くには1年以上かかり、戴冠は1068年5月11日にウィンチェスター大聖堂で行われた。この儀式は、征服の正当性を示すため、通常と異なる文言が用いられたことで知られる。以後は生活の大半をノルマンディーで過ごし、摂政として公国を治めた。子は、ノルマンディー公ロベール2世、ウィリアム2世、ヘンリー1世、ブロワ伯妃アデルら4男6女とされる。1083年、夫に先立って52歳で没し、自ら寄進したカーンのサントトリニテ修道院に葬られた。夫は4年後の1087年に没し、同じくカーンの、自ら寄進したサントテティエンヌ修道院に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- オットー・フォン・ノルトハイム (1083年没)
- 文宗 (高麗王) (1083年没)
- 曾鞏 (1083年没)
- 順宗 (高麗王) (1083年没)
同じ地域に関係する人物
- ロベール (モルタン伯) (1090年代没)
- ロジェ・アペリー (1994年没)
- ルイ・アルマン (1971年没)
- ジュディット・ド・ブルターニュ (1017年没)
- マルク・カモレッティ (2003年没)