伝記
ウァースは、1100年から1115年ごろの間にジャージー島で生まれ、1174年から1183年の間に没した、ノルマンディーの詩人である。ワースとも書かれる。名はロベールとされてきたが、これは誤りで、近年は「ウァース」だけだったと考えられている。『ルー物語』の写本には、ウァース、ヴァース、ガースなど、さまざまな綴りが見られる。「師」を意味する肩書きを誇りとし、「ウァース師」と呼ばれることもある。
子供のとき、本土のノルマンディーのカーンに渡り、聖職者になるための教育を受けた。のちにイル・ド・フランス地方のシャルトルか、パリで学び、カーンに戻って文学に専念した。『ルー物語』のなかで、自らを「読む聖職者」と称している。この言葉の正確な意味は失われているが、読書に専念する聖職者、あるいは教える聖職者だったと考えられる。経歴の初めには抒情詩を書いたが、一つも残っていない。1130年から1150年の間のものとして残るのは、聖人伝の3作で、『聖マルガリタ伝』と『聖母の受胎』は1130年から1140年ごろ、『聖ニコラオス伝』は1150年ごろに書かれた。
1155年に、ウァースは『ブリュ物語』を書き上げた。これはジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王伝』に基づく、ブリテンの歴史を語る韻文の年代記で、トロイの人ブルータスによるブリテン島建国から、アーサー王の治世の終わりまでを語る。ウァースは、自分が知っていることと、知らないこと、知り得ないことを区別した。この作品が人気を得たのは、アーサー王伝説を、土地の言葉であるアングロ・ノルマン語で大衆に近づきやすくしたからである。ウァースは、アーサー王の円卓に初めて触れ、アーサー王の剣に初めてエクスカリバーという名を用いた。この作品は、口承や、おそらく他の文献からの要素も含み、のちにクレティアン・ド・トロワなど多くの作者に影響を与えた。ただし、全体を見れば、ウァースがモンマスの文に加えたのは、さして重大でない細部にとどまる。
ウァースは、ヘンリー2世からバイユーの司教座聖堂参事会の聖職禄を贈られ、バイユーの参事会員となった。『ブリュ物語』への褒賞か、公国の歴史を書かせるための誘いであったと思われる。残された文書によれば、彼がこの聖職禄を得たのは1165年から1169年の間である。『ルー物語』は、ノルマンディー公たちと公国の歴史を語る年代記で、ヘンリー2世の依頼で書かれたともいい、ヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌに捧げられた。大部分は、ウィリアム1世(征服王)とノルマン・コンクエストにあてられ、ウァースが引く口承には、家族からの情報も含まれる。ヘイスティングズの戦いの準備については、記録だけでなく、肉親の目撃証言に基づくとうかがえる。ハレー彗星への言及もある。『ルー物語』の末尾で、ウァースは、君主がもはや自分に気前よくなく、補助が取り上げられたと述べている。
ウァースの没した時期は不明である。『ルー物語』には1174年の出来事への言及があり、その後に若王ヘンリーが生きているものとして書かれているが、ヘンリーが没したのは1183年である。ウァースはジャージー島文学の創設者とされ、ジャージー島のロイヤル・スクエアにある政府の建物の側面に、花崗岩の記念碑がある。そこには『ルー物語』にある、生地への誇りを述べた詩句が刻まれている。「私は、自分がジャージー島のウァースと言うし、言いたい」。
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