伝記
デュドン・ド・サン=カンタンは、960年代にヴェルマンドワで生まれたとされるピカルディ出身の聖職者で、年代記作者、詩人である。サン=カンタンの参事会員となり、のちに首席司祭をつとめた。学識のある人物で、教育はリエージュかランで受けたともいわれる。生涯についてはほとんど分かっておらず、1043年より前に没したことが知られるだけである。
987年ごろ、サン=カンタンの修道院長職を握っていたヴェルマンドワ伯アルベール1世が、デュドンをノルマンディー公リシャール1世のもとへ外交使節として送った。一説には、カペー朝の創始者ユーグ・カペーに対抗するため、ノルマンディーの支持を得るのが目的だったとされる。使節は成功し、デュドンはリシャールが没する996年までの二年ほどのあいだ、ノルマンディー宮廷にたびたび通うようになった。ラン司教アダルベロンにあてた書簡の中でデュドンは、この縁からリシャールに、ノルマンディーの地の慣習と事績、祖父ロロが王国内で確立した諸権利を記した書物を書くよう求められたと述べている。公の信頼を得た彼は、褒賞としてコー地方に所領を与えられたという。
二度目のノルマンディー滞在中に、デュドンは公に勧められていたノルマン人の歴史を書いた。作品は「ノルマンディー最初の公たちの習俗と事績について」、あるいは「ノルマン人の歴史」と呼ばれ、852年からリシャール1世の死の996年までを扱う。執筆の時期は996年から1015年のあいだとも、1015年から1026年のあいだともされ、近年の写本研究では、990年代にすでに最初の版があった可能性も指摘されている。リシャール1世の死後は、その子リシャール2世とルーアン大司教ロベールの勧めで執筆が続けられ、デュドンは二人や、リシャール1世の未亡人グンノール、公の異父兄弟ラウル・ディヴリーにも賛美の詩を捧げた。リシャール2世のもとでは宮廷礼拝堂付き司祭となり、ノルマンディーの伯たちのために証書を起草することもあった。のちサン=カンタンに戻って首席司祭をつとめた。没年については、1026年ごろとする説と、それ以後で1043年より前とする説があり、後者は、この年には別の人物が首席司祭となっていたことが記録で確かめられるためである。
この歴史書は、アダルベロンに捧げられた。デュドンは既存の文書をほとんど調べず、主に口承に頼ったようで、情報の多くはラウル・ディヴリーやグンノールから得たとされる。このため物語的な性格が強く、ドイツのデュムラーやヴァイツは信頼できないとみなしたが、レールやシュテーンストルプは伝説的要素を認めつつも、ノルマン人の歴史にとって大きな価値があるとした。内容は、残酷で野蛮な異教徒のヴァイキングとして描かれるハスティング、キリスト教に改宗した初代のロロ、王朝の殉教者として描かれる長剣公ギヨーム、キリスト教君主の模範として描かれるリシャール1世という、四人を軸にしている。
文体は散文と多様な韻律の詩を交互に用いるもので、ウェルギリウスやリウィウスなどのラテン作家に通じていたが、ラテン語は気取っていて難解だとされる。最古の写本はジュミエージュ修道院に由来し、挿絵を入れる余地を残して作られていたため、もとは絵入りの年代記として構想されたとする説もある。この書は中世に好評を博し、約十五の写本が残る。ジュミエージュのギヨームはこれを改訂、要約して公爵たちの事績の書に仕立て、ワースら後世の年代記作者にも広く用いられた。1619年にデュシェーヌが初めて刊行し、最良の校訂は1865年のレール版とされる。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ2世 (上ロートリンゲン公) (1026年没)
- アデライード・ダンジュー (1026年没)
- ウルフ伯 (1026年没)
- リシャール2世 (ノルマンディー公) (1026年没)
- 范寛 (1026年)
同じ地域に関係する人物
- シャルル (マイエンヌ公) (1611年没)
- ジョージ・ハトソン (1914年没)
- ブシャール4世・ダヴェーヌ (1244年没)
- ロイゼ・コンペール (1518年没)
- アーサー・オハラウッド (1918年没)