伝記
リシャール2世は、963年8月23日に生まれ、996年から1026年までノルマンディー公をつとめた人物である。善良公と呼ばれ、怒りっぽい公とも呼ばれた。父はノルマンディー公リシャール1世、母はグンノールで、その長男にあたる。
996年に父の跡を継いだとき、リシャールはまだ未成年だったらしく、公国には政治的な混乱が広がった。同じ年には農民の大きな反乱が起こり、農民たちは自ら統治するために集会を設けようとしたと伝えられる。鎮圧に向かったのは、公の叔父にあたるラウル・ディヴリーで、反乱の主だった首領たちは手足を切り落とされたとされる。この反乱が公に向けられたものだったかどうかは定かでない。また、公の異母兄弟ギヨームが公の権威を認めず、ラウルに捕らえられる事件もあった。ギヨームは1001年ごろに脱走したが、のちに兄に赦しを請い、公はこれを受け入れて、ウ伯領を与えたとされる。この時期の公国は主にラウルが取り仕切っていたようで、1001年には、リシャールがノルマンディーの唯一の主となった。
治世の三十年間に、リシャールは公国の内部を整えた。一族のリシャール家の者をバイユーやルーアンの司教座や各地の伯領に据え、伯を置いたのは歴代の公のうち彼が最初である。伯たちは国境地帯に配され、罷免も可能で、公の権力の一部を委任されて行使する立場だった。宗教面では、ヴァイキングの侵入で途絶えていた修道生活を公国に再び根づかせた。1001年には居館のあるフェカンにイタリアの改革者ギヨーム・ド・ヴォルピアーノを招き、修道士十二人とともにフェカン修道院を再興させている。この修道院はのちにサン=トーラン・デヴルーやモンティヴィリエ、ベルネなどの修道院の復興や創設にも力を貸した。ルーアンのサン=トゥアン修道院への曽祖父ロロの寄進も、1025年と1026年に確認している。歴史家ヌヴーは、1026年のノルマンディーは王国で最も強力で、最もよく治められた公国だったと述べている。
外交では、信仰心の篤いフランス王ロベール2世と通じ合うところが多く、ブルゴーニュ公と争う王を軍事面で支援した。妹アヴォワーズをブルターニュ公ジョフロワ1世に嫁がせ、自らもその妹ジュディットと結婚して、二重の縁組でブルターニュとの同盟を固めた。1000年から1001年にかけては、コタンタン半島に攻め込んだエゼルレッド2世のイングランド軍を撃退している。その後は妹エンマをエゼルレッドに嫁がせて関係の改善をはかった。この結婚は、のちに孫のギヨームがイングランド王位継承権を主張する根拠となった。1013年にデンマーク王スヴェン1世がイングランドへ侵攻すると、エンマは息子エドワードとアルフレッドを連れてノルマンディーに亡命し、すぐにエゼルレッドも続いた。エゼルレッドの死後、クヌート1世はエンマと強引に結婚し、自らの王位を認めるようリシャールに求めた。リシャールはスカンジナビアのヴァイキングとも接触を続け、傭兵を雇い、イングランドへ向かうスヴェン1世と条約を結んだ。
書記官で聴罪司祭でもあったデュドン・ド・サン=カンタンには、歴代の公を道徳的に正しいキリスト教徒の統治者として描くよう命じた。これはノルマン人の定住を正当化する狙いがあったとみられ、信頼できない伝説も多く含まれている。リシャールは1026年8月28日に没した。ジュディットとのあいだにはリシャール3世、ロベール1世ら子女があり、二人があいついで公位に就いた。次に結婚したパピア・ダンヴェルムとのあいだには、のちのルーアン大司教モージェらが生まれている。
同じ年に亡くなった人物
- オット=ギヨーム (ブルゴーニュ伯) (1026年没)
- アデライード・ダンジュー (1026年没)
- ウルフ伯 (1026年没)
- ハインリヒ5世 (バイエルン公) (1026年没)
- フリードリヒ2世 (上ロートリンゲン公) (1026年没)
同じ地域に関係する人物
- アルテュール1世 (ブルターニュ公) (1203年没)
- Michel Quoist (1997年没)
- ジャック・アメル (2016年没)
- マチュー・ダルザス (1173年没)
- アルマン・サラクルー (1989年没)