HISTORICAL PERSON · 1026年没

ウルフ伯

デンマークのスコーネ地方のヤール。クヌート大王の側近として英国征服に加わり、王の不在中はデンマークの摂政を務めた。子スヴェンはのちデンマーク王となる。

生涯
1026年没
死亡地
デンマーク(シェラン地域 / ロスキレ)
出生地
—
出典
世界地図
デンマーク(シェラン地域)

伝記

ウルフ・ヤールは、ウルフ・トルギルソンとも呼ばれ、スコーネのヤールをつとめたデンマークの有力者で、デンマークの摂政となった人物である。トルギル・スプラクレグの子で、のちのデンマーク王スヴェン2世の父にあたる。このため、1047年から1375年までデンマークを治めたエストリズセン家の始祖とされ、スウェーデン側の記述ではこの家系が彼にちなんでウルフィング朝と呼ばれることもある。出自については、18世紀のデンマークの歴史家ランゲベクが、トルケル・スプラクレグの両親を強者スティルビョルンとティラ・ハラルズドッティルとする説を唱えた。これに従えば、ウルフはスウェーデンのムンソー家のオーロフ・ビョルンソンの子孫であり、ティラを通じてハーラル青歯王の子孫でもあることになる。ただし、この系譜はスヴェン2世が興した王朝の由来を飾るために作られた可能性も指摘されている。兄弟にはクヌート大王に仕えたヤールのエイラフがおり、姉妹のギュザはウェセックス伯ゴドウィンと結婚した。993年生まれとされる。

1016年にはクヌートのイングランド侵攻に加わり、征服事業ではクヌートが最も信頼する側近の一人だった。1015年から1016年にかけて、クヌートの姉妹エストリズと結婚し、のちに王となるスヴェンと、のちにイングランドでヤールとなるビョルンをもうけた。ブレーメンのアダムは、さらにオースビョルンという子も挙げている。1024年ごろからはデンマークのヤールに任じられ、クヌートの代理として摂政をつとめた。王の不在中は、クヌートの息子ハルザクヌートの養父兼後見人として国を治めた。

1026年、スウェーデン王アーヌンド・ヤコブとノルウェー王オーラヴ2世が、クヌートの不在に乗じてバルト海でデンマークに攻撃を仕掛けた。ウルフは、王の不在に不満を抱いていた自由民を説いて、ハルザクヌートを王に選ばせた。後見人である自分が実際の支配者になるための策だったとされる。事態を知ったクヌートはデンマークに戻り、ヘルゲオーの海戦でスウェーデンとノルウェーの軍と戦った。この勝利でクヌートはスカンディナビアで抜きん出た指導者となった。

この戦いをめぐる記録は食い違っている。アングロ・サクソン年代記は戦いを1025年のこととし、スウェーデン側の指導者としてウルフとエイラフの名を挙げており、これは通常ウルフ・ヤールとその兄弟と考えられている。サクソもウルフがヘルゲオーでクヌートと戦ったとする。一方、ヘイムスクリングラの聖オーラヴのサガは、クヌートが陸の戦いでは敗れたものの、ウルフが海戦での勝利を助けたので全体としては勝者となったと語る。一つの説明として、ウルフは1025年の戦いではスウェーデン側についてクヌートと戦ったが、ヘルゲオーの戦いの前に寝返ったのではないかという見方がある。なおエイラフは、もしクヌートに敵対したのだとしても赦されたらしく、クヌートの死までイングランドのヤールにとどまった。

クヌートとの和解は長続きしなかった。ロスキレでの宴で、義兄弟の二人はチェスをしていたが、クヌートが自分の騎士を取られたことを認めようとせず、言い争いになった。翌日の1026年のクリスマスに、クヌートは親衛隊の一人にウルフを殺させたという。場所はロスキレ大聖堂の前身にあたる教会だった。ウルフが前日に聖ルキウス教会に逃げ込んだとも、殺害者がノルウェー出身の白のイーヴァルだったとも伝わるが、この件については記録どうしが食い違っている。息子スヴェンは王に、ビョルンはイングランドのヤールとなった。

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