伝記
アルテュール1世は、ブルターニュ公である。英語名はアーサー・オブ・ブリタニーといい、プランタジネット家の一員にあたる。1187年3月29日にナントで生まれた。父はイングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの四男ブルターニュ公ジョフロワ2世、母はブルターニュ公コナン4世のただ一人の子コンスタンスである。生まれる前の1186年、父はフランス王フィリップ2世がパリで開いた馬上槍試合での傷がもとで急死していた。このため、遺児として生まれた彼は、イースターの日の誕生に、ブルターニュの人々から政治的な救世主にも近い期待を寄せられた。母は、騎士道物語の主人公アーサー王にちなんで、この名をつけた。ヘンリー2世が、自分と同じ名にするよう求めたという記録もある。
アルテュールはブルターニュで、母の保護のもとに育てられた。1188年、ヘンリー2世はコンスタンスを、イングランドに領地をもつチェスター伯ラヌルフと再婚させたが、夫婦は同居せず、子もなかった。1191年、嫡子のない伯父の王リチャード1世は、第3回十字軍の途上のシチリアで、アルテュールを後継者とすることを考え、タンクレーディ王の娘と婚約させた。これに対し、祖母アリエノールはアルテュールの王位継承を快く思わず、リチャードに子をもうけさせるため、同じ年にナバラの王女ベレンガリアを妃に迎えさせ、二人は5月にキプロスで結婚した。1196年、リチャード1世とラヌルフがコンスタンスを捕らえ、ブルターニュに攻め込むと、ブルターニュの貴族たちはアルテュールへの忠誠を誓い、レンヌの貴族の集会で、9歳のアルテュールが公と宣言された。母はフランス王フィリップ2世との同盟を選び、アルテュールは1196年から1198年まで、のちのルイ8世とともにフランスの宮廷で育てられた。10歳のころには、ブルターニュに戻っていた。
1199年、リチャード1世が嫡子のないまま、アキテーヌ地方で戦死した。フィリップ2世の干渉を恐れたペンブルック伯ウィリアム・マーシャルらイングランドの貴族は、リチャードの遺言どおり、弟のジョンの王位継承を決めた。アルテュールとブルターニュの貴族は、ジョンは父ジョフロワ2世の弟にすぎないとして、アンジュー伯領を占領し、大陸のプランタジネット領の諸侯の協力も得て、王位を主張した。祖母アリエノールはジョンを支持し、傭兵部隊をアンジューに送って、アルテュールの一派をル・マンへ退かせた。その隙にジョンはイングランドへ渡って戴冠した。母コンスタンスはラヌルフとの結婚の無効を得て、ギー・ド・トゥアールと再婚した。1200年、ジョンがイザベラ・オブ・アングレームと強引に結婚すると、フィリップ2世はアルテュールに、アンジュー、メーヌ、トゥーレーヌの大陸の領土を与えた。
1202年、アルテュールはフィリップ2世のノルマンディー侵攻に乗じて、城にいた祖母アリエノールを捕らえようとしたが、かけつけたジョンの軍勢に逆に捕らえられ、ファレーズに幽閉された。のちにルーアンの塔に移されたが、1203年4月に消息を絶った。4月13日にジョンの指示で塔から出されて船に乗せられ、セーヌ川の船上で暗殺されたという噂が流れた。ジョンがアリエノールへ送った4月16日付の手紙には、暗殺をほのめかす文があったとも、1210年ごろにブラオスがフランス宮廷へ逃げ込んで事件を自白したともいわれる。真相は不明だが、この事件で、イングランドと大陸の貴族のジョンへの失望は強まり、フィリップ2世による大陸のプランタジネット領の没収につながった。
同じ年に亡くなった人物
- William of Aebelholt (1203年)
- ディルク7世 (ホラント伯) (1203年没)
- オン・カン (1203年没)
- アラン・ド・リール (1203年没)
- ウィリアム7世 (1203年)
同じ地域に関係する人物
- ジャン=バティスト・デカン (1791年没)
- 湯浅年子 (1980年没)
- ジャック=エミール・ブランシュ (1942年没)
- ベネディクト・モレル (1873年没)
- ニコル・ベルジェ (1967年没)