伝記
クララ・ヨゼフィーネ・シューマン(旧姓ヴィーク)は、1819年9月13日にザクセン王国のライプツィヒで生まれたドイツのピアニスト・作曲家である。ピアノ教師フリードリヒ・ヴィークの次女で、19世紀に最も高名だった女性ピアニストの一人であり、作曲家ロベルト・シューマンの妻としても広く知られる。父は幼いころに歌手だった妻と離婚し、妻の収入に頼っていた彼は、子どもたちのうち一番見込みのあるクララにだけ教育を施し、ほかの子の養育は放棄していたという。「第二のモーツァルト」に仕立てようとしたとも言われ、一説には日記に書く内容まで指示したとされる。1824年に父からピアノを習い始め、1828年、9歳でプロデビューし、ライプツィヒのゲヴァントハウスでモーツァルトのピアノ協奏曲のソリストを務めた。同年、ロベルト・シューマンが父に師事し始めている。天才少女としてドイツ全域に名を知られた。
12歳のころにはヨーロッパで演奏会をして回り、聴衆や著名人、皇帝らから絶賛された。『新音楽時報』ではリストやタールベルク、アントン・ルビンシテインと同等に評価された。1838年にはオーストリア皇帝フェルディナント1世が、18歳の彼女を「天才少女」と呼び、外国人女性としては前例のない名誉の称号「王室皇室内楽奏者」を与えた。ゲーテは「才能ある芸術家クララ・ヴィークのために」と刻んだメダルを贈った。ショパンは彼女を「僕の練習曲集を弾ける唯一のドイツ人女性」と絶賛し、それを聞いたリストは「力強く、知性的に、正確に」弾く彼女の演奏を聴きたいと手紙に書いた。彼女は父から、演奏家の責任は作曲家の精神と意図にできる限り近く演奏することだと教えられており、曲を好きなように装飾するリストの演奏には否定的だった。
1836年に父はロベルトとの交際を禁じ、彼女は後に父を相手取って裁判を起こした。1840年9月12日にロベルトと結婚し、1843年に父と和解した。夫妻は若いころから協作を行い、主題をやり取りし、ロベルトは『クララ・ヴィークの主題による即興曲』などに彼女の主題を用いた。二人の間には8人の子が生まれ、1840年代は妊娠を繰り返しながらヨーロッパで演奏会を行う、大変なハードスケジュールだったことが日記に残る。長男エミールは1歳で亡くなり、末子フェリックスは、ロベルトが精神病院に収容されたため父の顔を覚えていない。三男フェルディナントは、ロベルトの精神障害が部分的に遺伝したことが原因で自殺したとされる。
作曲家としても幼くして才能を示したが、当時は女性が作曲家になることは認められず、女性というだけで正当に評価されなかったため、37歳のころ作曲をやめ、ピアニストおよびピアノ教師として生きる決意をした。リストは彼女の作品を絶賛し、歌曲3曲をピアノ独奏用に編曲した。1856年7月29日にロベルトが没すると、精神病のイメージがついて回った夫の名誉を守るために奔走し、その最晩年の作品の多くや手紙の大半を廃棄したため、後世の批判を受けた。1877年にはロベルトの作品全集の編纂を始めた。ブラームスとは生涯にわたる親しい友人で、恋愛関係を示す証拠はない。1896年5月20日、脳出血のため死去した。ブラームスは危篤の報に汽車に乗ったが、間違えて各駅停車に乗ったため葬儀に間に合わず、埋葬の直前にようやく棺を垣間見ただけだったという。
同じ年に亡くなった人物
- リヒャルト・アヴェナリウス (1896年没)
- マシュー・ブレイディ (1896年没)
- ホセ・リサール (1896年没)
- マルセロ・ヒラリオ・デル・ピラール (1896年没)
- ルートヴィヒ・ザイデル (1896年没)
同じ地域に関係する人物
- エーバーハルト2世 (ヴュルテンベルク公) (1504年没)
- フィリップ・ヤーコプ・クレッチュマー (1845年没)
- エトムント・フェーゼンマイヤー (1977年没)
- ソフィア (ギリシャ王妃) (1932年没)
- エリーザベト・フォン・グロスブリタンニエン (1840年没)