HISTORICAL PERSON · 1016年没

スライマーン

コルドバの第5代カリフ。ムハンマド2世に追われたベルベル人に擁立され、カスティーリャ勢と組んで1009年にコルドバを占領した。翌年敗れて追われたが、1013年に再征服して1016年まで在位した。

生涯
1016年没
死亡地
スペイン王国(コルドバ県 / コルドバ)
出生地
スペイン王国(コルドバ)
出典
世界地図
スペイン王国(コルドバ県)

伝記

スライマーン・イブン・アルハカムは、コルドバ・カリフ国の第5代カリフである。スライマーン・アル=ムスタイン・ビッラーの名でも知られ、1009年に一度即位し、のちに1013年から1016年まで再びカリフの座にあった。父はアルハカムで、そのまた父スライマーンは初代カリフであるアブド・アッラフマーン3世の子の一人だったとされ、スライマーンはこの高名な初代カリフの曾孫にあたる。

1009年2月、ムハンマド2世が反乱を起こし、カリフのヒシャーム2世を幽閉した。カリフ国の軍事指導者アブド・アッラフマーン・サンチュエロがレオンでキリスト教徒の王アルフォンソ5世と戦っていた隙を突いた動きで、ムハンマド2世は首都コルドバを押さえて自らカリフとなった。ムハンマド2世はコルドバに住むベルベル人への組織的な迫害を始め、それは最終的にベルベル人の全面的な追放にまで至った。

多くのベルベル人はコルドバから北のカラトラバへ逃れ、そこでスライマーンを、カリフ位を取り戻すための擁立者として推戴した。スライマーンはカスティーリャ伯サンチョ・ガルシアと同盟を結び、ベルベル人とカスティーリャ人からなる軍を率いた。この軍はアルカラ・デ・エナレスでコルドバ勢を破り、南へ進んで11月にコルドバへ迫った。スライマーンは11月5日にカンティシュで、続いて8日にグアダルキビル川の橋をめぐるアルコレアの戦いでムハンマド2世の軍を破った。敗れたムハンマド2世はトレドへ逃れ、スライマーンは11月9日にコルドバへ入った。入城後、スライマーンはベルベル人とカスティーリャ人による市の略奪を許した。なお、アルコレアの戦いは11月1日だったとも伝えられ、ムハンマド2世の軍は2万人のコルドバ市民兵だったとされる。スライマーンは幽閉されていたヒシャーム2世を解放していったん復位させたが、数日後にはこれを廃した。そしてベルベル人の兵に推されてカリフに選ばれ、「神の助けを求める者」を意味するアル=ムスタイン・ビッラーの称号を名乗った。

しかし、トレドに逃れたムハンマド2世は、ヨーロッパ各地から集めた「奴隷」身分の傭兵で軍を固め、バルセロナ伯ラモン・ボレイユと結んで態勢を立て直した。1010年5月、この軍はスライマーンを破ってコルドバを奪い返し、ムハンマド2世は再びカリフとなった。ただしその復位は長続きせず、1010年7月23日にはコルドバの有力者たちの反乱で廃され、殺害されたという。その後、ヒシャーム2世が復位させられた。スライマーンはアルヘシラスに退き、海峡の向こうのベルベル人諸部族の支援を受けて内戦を続け、ムハンマド2世とカタルーニャ勢の攻撃も退けた。1013年、ベルベル人の助けを得てコルドバを包囲して奪い返し、ヒシャーム2世を廃した。ヒシャーム2世は殺害されたとも伝えられる。こうして始まった二度目の統治では、アラブ人、ベルベル人、「奴隷」出身の軍人たちの有力な家に権力の分け前を与える懐柔策をとった。だが、その結果として各地の実権は有力家が握り、カリフの実際の権威はコルドバ一帯に限られてしまった。この状況はのちのタイファ諸王国の萌芽とも見られている。この間にグラナダではジール朝が独立の王朝を築いた。

1016年、セウタ総督でハンムード家のアリー・イブン・ハンムード・アン=ナースィルが大軍を率いてコルドバに攻め寄せ、7月1日に市を征服した。スライマーンは捕らえられ、まもなく斬首された。アリーはその後、自らカリフを宣言した。

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