伝記
ディッダは、カシミールのウトパラ朝最後の統治者で、980年から1003年8月8日に亡くなるまで君臨した女性である。ローハラ家の出身で、息子や孫たちの摂政として958年から980年まで実権を握り、980年からは単独の支配者となった。その事績の多くは、12世紀にカルハナが著した『ラージャタランギニー』によって知られる。「カシミールのエカテリーナ」とも呼ばれるが、これは西洋風に言い換えた呼び名である。
ディッダは、ローハラ王シンハラージャの娘で、母方の祖父はカブールのヒンドゥー・シャーヒ朝のビーマデーヴァ・シャーヒであった。ローハラはピール・パンジャル山脈にあり、西パンジャブとカシミールを結ぶ交易路上に位置していた。26歳でカシミール王クシェーマグプタに嫁ぎ、ローハラ王国は夫の王国と結びついた。摂政になる前から国政に大きな影響力を持っていたとされ、ディッダとクシェーマグプタ、二人の名が刻まれたとみられる貨幣も見つかっている。958年、クシェーマグプタが狩りのあとに熱病にかかって亡くなると、子のアビマンニュ2世が即位した。まだ幼かったため、ディッダが摂政となり、事実上ただ一人で権力を行使した。当時の他の社会と比べて、カシミールでは女性が高く敬われていたという。最初に取りかかったのは、手に余る大臣や貴族を追い払うことだった。彼らは反乱を起こし、ディッダは統制を失いかけるほど追い込まれた。しかし賄賂を使った者もふくむ支持を得て立場を固めると、捕らえた反乱者だけでなく、その家族まで容赦なく処刑した。
972年にアビマンニュが死去し、その子ナンディグプタが、やはり幼いまま即位した。これが、封建的な地主であるダーマラたちの不穏を招き、のちにディッダが興したローハラ朝の大きな悩みとなる。973年にはシュタインの言い方でいえば、ナンディグプタを「始末」し、975年には弟のトリブヴァナグプタにも同じことをした。残ったいちばん下の孫ビーマグプタを玉座に据え、またも摂政となった。夫の宰相で、夫の死後にいったん追放しながら、その才が必要になると呼び戻したパルンガが亡くなると、絶対的な権力への欲はいっそう抑えがたくなった。このころトゥンガという男を愛人とした。トゥンガは牧夫にすぎなかったが、これで彼女は十分な安心を得たとされ、980年にビーマグプタを拷問のすえ殺させ、トゥンガを宰相として、みずから全権を握った。
980年から1003年に79歳で亡くなるまで、女王として統治した。インド史では数少ない女性君主の一人である。寵臣を定期的に粛清しながら長く善く統治したロシアのエカテリーナ大帝になぞらえて、カシミールのエカテリーナと呼ばれることもある。ダーマラの不満は残ったが、ディッダとトゥンガは力と外交でこれを収めた。近隣の君主と争う冒険にも乗り出さなかった。
ヴィグラハラージャが彼女の両親を殺して実権を握り、ディッダの兄弟ウダヤラージャは逃れねばならなかった。ディッダは、ウダヤラージャの長男サングラーマラージャを養子に迎えて、カシミールの後継者とした。この決定からカシミールのローハラ朝が始まった。ただしヴィグラハラージャは、ディッダの存命中にも、カシミールとローハラの双方に対する権利を主張しようと試みた。ディッダの治世は1003年に終わった。ガズニのマフムードは1013年までカシミールを襲っておらず、ディッダの死はその10年前であった。マフムードが北インドに侵攻したのは後継者サングラーマラージャの時代で、1015年のカシミール遠征は失敗に終わっている。
同じ年に亡くなった人物
- ナレクのグレゴリオス (1003年没)
- ロザーラ・ディタリー (1003年没)
- ヨハネス17世 (ローマ教皇) (1003年没)
- シルウェステル2世 (ローマ教皇) (1003年没)
- ベアトリクス・フォン・フランツィーン (1003年没)
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