HISTORICAL PERSON · 1003年没

ヘルマン2世 (シュヴァーベン大公)

シュヴァーベン大公。オットー3世の死後に開かれた王位選挙で有力候補として名乗りを上げたが、最終的にハインリヒ2世に敗れ、後にその即位を認めさせられた。

生涯
1003年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ヘルマン2世は、10世紀末から11世紀初めにかけてシュヴァーベン大公を務めた人物である。生年は分かっていない。シュヴァーベン大公コンラート1世の子で、母については、マルヒタール伯アダルベルトの娘ユーディトとも、シュヴァーベン大公リウドルフの娘リヒリントともいわれ、定説がない。リヒリントが母であれば、ヘルマン2世は皇帝オットー1世の曾孫にあたることになる。

997年に父コンラート1世が亡くなると、そのあとを継いでシュヴァーベン大公となった。皇帝オットー3世の側近くに仕えていたわけではなかったが、997年から999年にかけての第2次イタリア遠征には加わったとされる。また、アルザスの大公でもあったという。ブルグント王コンラートの娘ゲルベルガと結婚し、娘にマティルデとギーゼラ、息子にベルトルトとヘルマン3世らをもうけた。マティルデは1001年にケルンテン公コンラートと結婚し、のちに上ロートリンゲン公フリードリヒ2世の妻となった。ギーゼラは3度結婚し、最後の夫は神聖ローマ皇帝コンラート2世となった。ケルンテン公アダルベロに嫁いだベアトリクスも娘だとされる。

転機は1002年1月、オットー3世が独身のまま世を去ったときに訪れた。ヘルマン2世は、バイエルン大公ハインリヒ4世、マイセン辺境伯エッカルトとともに、ローマ王の座を目指して名乗りをあげた。ヘルマン2世とハインリヒは、ともにオットー朝の祖ハインリヒ1世の血を引くと主張した。エッカルトは有力な貴族で軍事指導者でもあったが、オットー朝との結びつきは遠かった。そのエッカルトは4月に、その立候補に反対するザクセン人の手で殺された。年代記作者ティートマールによれば、4月にアーヘンに集まった諸侯の多くは、有力なケルン大司教ヘリベルトを含め、ヘルマン2世を支持していた。しかしハインリヒは諸侯の承認を待たず、6月7日にマインツ大司教ヴィリギスの手で塗油され、王として戴冠した。ヘルマン2世はハインリヒがマインツに入るのを阻もうとして果たせず、いったんは新王を認めなかった。

その後ヘルマン2世はハインリヒ2世とその支持者に対して軍事行動に出て、ストラスブールでは配下の者が司教座教会を略奪した。しかし10月、ブルフザールで服従の儀礼を行って王権を受け入れ、ストラスブールの損害を償うことを約束した。同年のクリスマスにはフランクフルトの宮廷に姿を見せており、関係は改善していたとみられる。ハインリヒ2世は各地を巡って諸侯の承認を得たのち、シュヴァーベンへ進んでヘルマン2世にも王として承認させた。さらに、前帝の了解のもとで大公領の中心として造営が進められていたストラスブールを司教座教会へ返還させ、大公直轄の領地や家臣の管轄地を王に忠実な伯に委ねるなど、シュヴァーベンにおける大公の権力を縮小させた。1003年1月には、ストラスブールの聖シュテファン女子修道院を司教ヴェルナーに譲るよう求められている。

ヘルマン2世は1003年5月4日に死去した。同時代の人々は、その死を、ストラスブールの司教座教会を汚したことへの神罰と受け止めたという。死後、ハインリヒ2世はシュヴァーベンとアルザスを切り離して大公領を掌握し、跡を継いだ息子ヘルマン3世がまだ幼い間は、その後見人として治めた。994年か995年の生まれとされるヘルマン3世は、1012年に亡くなっている。

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