伝記
グレゴリウス5世は、ローマ教皇で、996年5月3日から999年2月18日まで在位した。本名はブルーノで、ドイツ人として初めてローマ教皇になった人物といわれる。かつて、ボニファティウス2世をドイツ人初の教皇とする説もあったが、彼は東ゴート族であり、ゲルマン人であってもドイツ人ではないとされる。
972年か973年に、現在のオーストリアにあるシュタイヤーマルク地方のシュタインアハで生まれたとされる。父はのちにケルンテン公となるオットー、母はユーディトで、オットー大帝の外曾孫にあたる。皇帝オットー3世とは従兄弟の関係にあった。次男で、兄のハインリヒはのちの皇帝コンラート2世の父、弟のコンラートは1004年に父の跡を継いでケルンテン公となった。ヴォルムスでマインツ大司教ヴィリギスらの教育を受け、同地で司祭を務めたのち、ローマへ向かう若き王オットー3世に宮廷付き司祭として従った。目的は戴冠のためであり、また、ローマの有力者クレシェンティウスらに追われた教皇ヨハネス15世の求めに応じるためでもあった。教皇は皇帝軍が着く前に没し、オットー3世は、親族で私設の司祭でもあったブルーノを後継に指名して、ローマへ送った。ブルーノは聖職者と民衆に迎えられて選ばれ、教父の一人にならってグレゴリウスの名を名乗った。このとき24歳だった。
就任して最初の数週間は、オットー3世の戴冠の準備に追われた。戴冠式は996年5月21日、キリスト昇天祭の日に、新教皇の手で行われた。翌日、教皇の取りなしで、皇帝は追放を宣告されていたクレシェンティウスを赦した。その後、ローマで開いた教会会議では、ユーグ・カペーに失権させられたアルヌルフをランス司教座へ復帰させることが決まり、ジェルベール(のちのシルウェステル2世)は座を奪った者として非難された。フランス王ロベール2世が、又従姉にあたるベルトと結婚したことについては、王を破門し、国内の司教叙任権の主張を引き下げさせた。政治的には、一貫してローマにおける皇帝の代理として動き、帝国領内の修道院に多くの特権を与えた。品行は模範的とされ、千年紀の終わりが近づき、神の裁きや世の終わりへの不安が広がる中で、信者たちは大きな期待を寄せたという。
しかし、教皇に赦されたクレシェンティウスは、数か月後に反旗を翻し、教皇をローマから追い出した。教皇はスポレートへ逃れ、クレシェンティウスは、かつてオットー3世の母の顧問だったヨハネス・フィラガトスを対立教皇ヨハネス16世に立てた。オットー3世は再びローマへ進軍して反乱を鎮め、クレシェンティウスは捕らえられて処刑された。ヨハネス16世は逃げたが、皇帝軍に捕らわれ、鼻と耳を削がれ、舌を抜かれ、目をつぶされ、皇帝と教皇の面前で辱められて、のちフルダ修道院へ送られた。この見せしめの刑は、隠修士ロッサーノのニルスの呪いを招いたという。教皇は座に戻ったが、999年2月18日、ローマで急死した。マラリアが死因とされるが、毒殺の可能性を指摘する説もある。遺体は旧サン・ピエトロ大聖堂に葬られ、オットー2世の傍らに眠る。オットー3世は、かつての家庭教師で親交の深かったシルウェステル2世を後継に選んだ。
同じ年に亡くなった人物
- Elod (999年(推定))
- ベルムード2世 (999年没)
- マンスール2世 (999年)
- スブフ・バシュクンジーヤ (999年)
- ボレスラフ2世 (ボヘミア公) (999年)
同じ地域に関係する人物
- セルジオ・ソリーマ (2015年没)
- ガイウス・コルネリウス・ガッルス (紀元前25)
- ドミティウス・ウルピアーヌス (228年没)
- ウァレンティニアヌス3世 (455年没)
- Flavio Chigi (1693年没)