HISTORICAL PERSON · 1892年没

ウォルト・ホイットマン

アメリカの詩人・随筆家・ジャーナリスト。「自由詩の父」と呼ばれ、1855年に自費出版した『草の葉』を死の年まで拡充・改訂した。南北戦争では志願看護師を務め、日本には夏目漱石が紹介した。

生涯
1892年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニュージャージー州 / カムデン)
出生地
アメリカ合衆国(West Hills)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニュージャージー州)

伝記

ウォルト・ホイットマンは、本名をウォルターといい、1819年5月31日にニューヨーク州ロングアイランドのハンティントン、ウェスト・ヒルズで、クエーカー教徒の両親ウォルターとルイザのもとに生まれたアメリカ合衆国の詩人、随筆家、ジャーナリストである。アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人で、「自由詩の父」とも呼ばれる。9人兄弟の2番目で、父と区別するためにすぐ「ウォルト」という愛称がつけられた。4歳のとき、一家はブルックリンに移り、投資の失敗も一因となって住む家を転々とした。幼少期は経済的困窮のために落ち着かず不幸せだったと回顧しているが、1825年7月4日の独立記念祭でラファイエットに高く抱き上げられ、頬に接吻を受けたことは、幸せな瞬間の一つだったと述べている。

11歳で正式な学校教育を終え、家計のために働き始めた。初めは2人の弁護士の雑用係、次いでロングアイランドの週刊紙の印刷見習工となり、印刷機や組版について学んだ。その後、ブルックリンの有力週刊紙の店で働き、地元図書館に通い、劇場にも足を運ぶようになった。1835年5月、16歳でブルックリンを去ってニューヨークで植字工になったが、大火事や1837年恐慌に至る不況で仕事探しは難航した。1838年春まで各地の学校で教えたが、教職には満足しなかった。ハンティントンで自分の新聞『ロングアイランダー』を創刊し、出版者、編集者、印刷工、配達まで自ら担ったが、10か月後に手放した。1841年にニューヨークへ移り、1840年代は『ブルックリン・イーグル』紙で2年間編集に携わるなど新聞社を転々としつつ、散文や詩を発表し続けた。禁酒運動小説『フランクリン・エヴァンズ』(1842年)も書いている。

何年も働いた後、ついに詩人になる決意をした。詩集『草の葉』の原型は1850年に着手され、生涯手を加え続けることとなる。彼が書こうとしたのは、真にアメリカ的な叙事詩で、聖書の韻律を利用した自由詩の形式を用いた。1855年6月末、自費で『草の葉』初版を刊行し、795部を刷った。題名のない12編の詩を収めた95ページの小冊子で、作者名はなく、代わりに本人の版画が口絵に載っていた。ラルフ・ワルド・エマーソンは5ページにわたる称賛の手紙を書き、広く読まれて相当の関心を集めたが、「わいせつ」との批判も受けた。刊行の数日後の7月11日、父が65歳で世を去った。1856年に20編を加えた第二版が出て、1860年、1867年と改訂を重ね、ソローらが訪ねてくるほどこの作品を評価した。経済的に困難になり、1857年からは再びブルックリンの『デイリー・タイムズ』で働いた。

南北戦争の開戦のころ、北軍を鼓舞する詩「叩け!叩け!太鼓を!」を発表した。1862年12月、新聞の戦傷者名簿に、弟ジョージではないかと思われる名を見て、即座に南部へ向かった。弟は頬に軽い傷を負っただけで無事だったが、傷ついた兵士たちの姿や、積み上げられた切断された手足の光景に強い衝撃を受け、ワシントンD.C.へ出発した。友人のつてで陸軍主計官の事務局で働き、空いた時間は陸軍病院で志願看護師を務めた。この経験は、1863年の「偉大なる病人軍」や、のちの『戦争の思いで』にまとめられている。1865年1月、内務省の下級職員の職を得たが、同年6月30日付けで解雇を通告され、友人の抗議で法務長官事務局に移った。晩年は卒中に倒れた後、ニュージャージー州カムデンに移り、1892年3月26日に72歳で没した。その葬儀は盛大であった。

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