伝記
マヌエル・デオドロ・ダ・フォンセカは、1827年8月5日にアラゴアス州のアラゴアス・ダ・ラゴア・ド・スルで生まれたブラジルの軍人であり、政治家である。軍事クーデターを指揮して皇帝ペドロ2世を退位させ、ブラジルの初代大統領となった。生家は軍人の家庭で、父マヌエル・メンデス・ダ・フォンセカはポルトガル軍に入り、のちブラジル軍の中佐で退役した。母はローザ・マリア・パウリーナである。2人の姉妹と7人の兄弟がおり、男たちはみな軍人で、うち6人がパラグアイ戦争で戦った。生まれた町は、現在は彼にちなんだ「マレシャル・デオドロ」という名で呼ばれている。1843年から1847年にリオ・デ・ジャネイロの陸軍学校で砲兵を学び、1848年にペルナンブーコ州で起きたプライエイラの反乱の鎮圧で、最初の軍事行動に参加した。
三国同盟戦争(パラグアイ戦争、1864年から1870年)には陸軍大尉として従軍し、1884年に陸軍元帥、最終的には最高司令官になった。勇猛さと軍事的才能、雄々しい姿が、彼を「国の象徴」に押し上げたという。1860年4月16日、33歳でマリアナ・セシリア・デ・ソウザ・メイレレスと結婚したが、子はなかった。1885年にリオグランデ・ド・スル州の副知事となり、翌年、知事の辞任を受けて同州の知事を務めた。この間にサンパウロのコーヒー農園主や共和主義の知識人と交流を持った。帝国政府と軍の対立である「軍事問題」に関わってリオ・デ・ジャネイロに戻り、1888年にマット・グロッソ州の軍司令官に任命されたが、翌年、帝国最後の内閣の成立に伴って辞任した。
奴隷制は、皇帝の長女イザベルが3度目の摂政を務めていた1888年に廃止された。これに憤った寡頭政治の執政者たちが、その後のクーデターの一翼を担った。デオドロは、多くの危機に揺れる帝政のなかで、皇帝を退位させる軍事クーデターを率いた。1889年11月15日に共和国が宣言されると、臨時政府の首班となった。刑法典の制定や商法の改正、教会と国家の分離を示す民事婚の導入、墓地の世俗化などが、最初の改革に含まれた。一方、財務大臣ルイ・バルボザの経済政策のもとで、大きな投機熱とインフレによるエンシリャメント危機が起こった。
1891年に最初の共和国憲法が公布され、2月26日の間接選挙で、議会に軍事的圧力をかけたうえ、僅差の過半数で初代大統領に当選した。数日後、キンタ・ダ・ボア・ヴィスタで就任時の宣誓を行った。しかし政権は、副大統領フロリアーノ・ペイショトとの敵意に翻弄された。中央集権的な傾向と、市民社会や軍の一部の連邦主義的な傾向との間で緊張が高まり、議会の抵抗勢力は強固になった。1891年11月3日、国家の非常事態を宣言して議会を解散させると、反対する議員たちは海軍提督クストジオ・ジョゼ・デ・メロら海軍幹部の支持を受け、デオドロは内戦の瀬戸際にあると悟った。11月23日に辞職してフロリアーノ・ペイショトに席を明け渡し、翌1892年8月23日、リオ・デ・ジャネイロで強い呼吸困難の発作のため死去した。その肖像は1950年から長らく旧20クルゼイロ紙幣に使われた。
同じ年に亡くなった人物
- アルフレッド・テニスン (1892年没)
- アントン・ファン・ラッパルト (1892年没)
- ローベルト・フランツ (1892年没)
- ジョン・ポープ (1892年没)
- ペーテル・ニコライ・アルボ (1892年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョアン・フィゲイレド (1999年没)
- アントニオ・パレイラス (1937年没)
- アフォンソ・レイディ (1964年没)
- Zeze Procopio (1980年没)
- カピストラーノ・デ・アブレウ (1927年没)