伝記
ジョゼフ・エルネスト・ルナンは、1823年2月28日に生まれたフランスの宗教史家、思想家である。ブルターニュのコート=ダルモール県トレギエの出身で、近代合理主義の観点から書かれたイエスの伝記『イエス伝』の著者として知られる。父親はルナンが5歳のときに死去し、12歳年上の姉アンリエットが家計を助けるためにパリで教師の職に就いた。信心深い人格者だった姉の影響は大きく、1873年には姉についての回想記も書いている。母の助けもあって、ブルターニュの神学校で傑出した成績を残し、聖職を目指してパリの大学へ進んだ。そこで都会の啓蒙主義的な科学知の世界に目覚め、カトリックの信仰への懐疑を抱き始める。聖職と知的誠実さとの間の葛藤のすえ、教会の超自然的で伝統的な信仰を捨て、「イエスの卓越した人格に対する信仰」とともに、聖職の道を断念した。
1855年には『セム系言語の一般史および比較体系』を著し、1860年には『近代社会の宗教の未来』を発表した。1860年から翌年にかけて、政府の命でパレスチナの学術調査の指揮を執った。ここで一帯を旅し、のちの『イエス伝』の下敷きとなる風物に親しんだが、同伴した姉アンリエットと同時にマラリアにかかり、意識を回復したときには、アンリエットはすでに亡くなっていた。姉の感化がなければ、『イエス伝』はより破壊的な性格のものになっただろうと言われる。帰国した1861年に、コレージュ・ド・フランスのヘブライ語主任教授に就任した。翌1862年の開講初日に、イエスを「比類なき人間」と呼んで大きな物議をかもし、1870年に復職するまで講義は中止された。
その翌1863年に刊行された『イエス伝』は、イエスの天才的ヒューマニズムを賛辞しながら、「奇跡や超自然」をすべて非科学的な伝説として排除した、近代合理主義的な世界観による「史的イエス」の書だった。すぐに各言語に翻訳され、ヨーロッパで広く議論の的となり、自然科学で理論化できない要素を迷信として排除する、聖書研究の世俗的な伝統の端緒となった。1884年にはコレージュ・ド・フランスの学長に任命された。1882年にソルボンヌで行った講演『国民とは何か』では、フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』で示した、人種や言語などの基準に基づくネイションとは異なり、ネイションを精神的原理と捉え、人々が過去に行い、今後も行う用意のある犠牲心によって構成される連帯心に求めた。「国民の存在は日々の国民投票なのです」という言葉は有名である。彼の主張は、普仏戦争で奪われたアルザス=ロレーヌがフランスに帰属するという、本人の信念とも結びついていた。
一方で、彼の主張は批判も受けてきた。1871年の『知的道徳的改革』では、西洋人種が「劣った人種」を征服し搾取するのは当然だと述べ、エメ・セゼールはこれを厳しく批判し、エドワード・サイードは彼の学説を初期のオリエンタリズムとした。『セム系言語の一般史』ではセム族とアーリア族を人類の決定的な区分とし、そのため「反セム主義」という語を最初に用いたとされる。王党派でもあって、「諸君は王権神授説を信じなくても、王党派となることができるのだ」と述べた彼は、1892年10月12日にパリで没した。
同じ年に亡くなった人物
- アルベール・オーリエ (1892年没)
- エドゥアール・ラロ (1892年没)
- ピエール・オシアン・ボンネ (1892年没)
- コンスタンティン・フォン・アルフェンスレーベン (1892年没)
- ベルンハルト・ヴィントシャイト (1892年没)
同じ地域に関係する人物
- イヴ・ジョゼフ・ド・ケルゲレン・ド・トレマレック (1797年没)
- フランソワ・ヴィドック (1857年没)
- イリヤ・ズダネーヴィチ (1975年没)
- エレフテリオス・ヴェニゼロス (1936年没)
- ジョルジュ・ブラック (1963年没)