HISTORICAL PERSON · 紀元前300没

メトロクレス

マロネイア出身のキュニコス派の哲学者。テオプラストスに学んだ後、テーバイのクラテスに従い、ディオゲネスらの逸話を書き残す先駆けとなった。

生涯
紀元前300没
死亡地
—
出生地
ギリシャ共和国(東マケドニア・トラキア / マロネイア)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(東マケドニア・トラキア)

伝記

メトロクレスは、紀元前325年ごろに活動した犬儒派の哲学者である。出身はマロネイアとされる。生年は分かっておらず、没年は紀元前300年とされる。初めはアリストテレスのリュケイオンでテオフラストスに学び、のちにテバイのクラテスの弟子となった。著作はほとんど残っていないが、ディオゲネスらキュニコス派の人々についての教訓的な逸話、すなわちクレイアイを書く習慣を取り入れた最初期の犬儒派の一人として重要である。

犬儒派に転じたいきさつは、ディオゲネス・ラエルティオスが伝えている。メトロクレスは弁論の練習をしている最中に放屁してしまい、あまりに恥じ入って家に閉じこもり、絶食による自殺を図ったという。そこへクラテスが訪ね、ルピナス豆の食事を作ってやり、あれは自然に従った行いであって恥じることはないと説いた。さらにクラテス自身が放屁して自然なことだと示してみせると、メトロクレスは納得して恥の意識を捨てたとされる。この話が事実かどうかは分からないが、犬儒派にとっては、それまでの教育が無価値であったことを示す象徴であった。テオフラストスの弟子として多くの知識を得ていても、世間の慣習や礼儀作法にとらわれ、恥ずかしさのあまり死のうとするほどだったからである。

同じくらい重要なのが、テレスの著作に残る一節である。若いころのメトロクレスはリュケイオンやアカデメイアで学んでいたが、華やかな暮らしの水準についていけなかった。テオフラストスやクセノクラテスのもとで学んでいたときは、家から多くの物が送られてきても飢え死にを恐れ、いつも困窮していた。ところがクラテスに乗り換えてからは、家から何も送られてこなくても、他の人まで養えるようになったという。以前は靴、外套、奴隷の供回り、立派な家が必要で、共同の食卓ではパンが上質か、ごちそうが並外れているか、酒が甘いか、もてなしがふさわしいかに気を配らねばならず、費用がかさんだ。そうした暮らしが「自由人にふさわしい」と見なされていたからである。

ロドスのヘカトンによれば、メトロクレスは自分の著作をすべて焼いたというが、焼いたのはテオフラストスの学校で取ったノートだけだったと言う者もいる。妹ヒッパルキアがクラテスと出会ったのは、メトロクレスを通じてだった可能性があり、彼女はのちにクラテスと結婚して、同じく犬儒派の哲学者となった。プルタルコスは、メトロクレスが冬は羊の間で眠り、夏は神殿の柱廊で眠る姿を描いている。また、メガラ派の哲学者スティルポンを知っていて論争したらしく、スティルポンは『メトロクレス』という対話篇を著した。ラエルティオスによるメトロクレスの伝記には弟子の名が並んでいるようだが、その一覧はおそらくクラテスの弟子を挙げたものである。

いくつかの著作を書いたが、思想はほとんど伝わっていない。富は善用されないかぎり認めず、物事を、家のように金で買えるものと、教育のように時間と心配りを要するものとに分けて考えた。著作の一つが『クレイアイ』、すなわち逸話集あるいは格言集であった。犬儒派にとって最も重要な文学形式では、ディオゲネスやクラテスらをめぐる数千の逸話が集められ、また創作され、人物の行動を通じて道徳的な教えを示した。ラエルティオスは、メトロクレスが書いたディオゲネスの逸話を一つ伝えている。頭を半分剃ったディオゲネスが若者たちの宴に出向いて殴られ、のちに殴った者たちの名を白い板に書いて首から下げて歩き、彼らが非難を浴びるようにしたという話である。メトロクレスは非常な高齢で死んだとされ、みずから息を止めて窒息死したともいわれる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物