伝記
ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーは、1831年8月12日に生まれ、1891年5月8日に没したロシア出身の作家、宗教家である。近代神智学を創唱し、神智学協会の設立者の一人となった。通称ブラヴァツキー夫人。旧姓はフォン・ハーンで、父方はユグノーの血を引くドイツ系、母方はロシア人である。
1831年にウクライナのエカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)で、ドイツ系貴族で騎兵砲撃隊長の父ペーター・フォン・ハーンと、ロシアの名門出身の小説家で女権主義者の母ヘレナ・アンドレヤヴナの間に生まれた。ロシア首相を務めたヴィッテ伯爵は従弟にあたる。母はイギリスの小説家ブルワー=リットンのオカルト小説をロシア語に翻訳しており、彼女はこれを夢中になって読み、強い影響を受けた。母は若くして亡くなり、父は軍務で落ち着かなかったため、祖母が母代わりとなった。幼いころは精霊と会話する夢見がちな少女で、気性も激しかったという。1844年には父とパリとロンドンに行き、音楽教育を受けた。1848年、20歳以上年上の将軍ニキフォル・ブラヴァツキーと結婚したが、数か月で家を出た。以後の人生は謎に包まれ、1873年にパリに戻るまでの24年間の動向に定説はない。自伝によれば世界を旅して秘教を学んだというが、状況や年譜と矛盾する点が多く、真偽については議論を呼んできた。
1873年にパリからニューヨークに渡り、1874年にヴァーモント州の降霊会でヘンリー・スティール・オルコット大佐と出会った。二人は心霊運動に加わったが、1875年の記事を境に、心霊主義と正反対のオカルティズムへと方向転換した。1875年11月17日に神智学協会を正式に創設し、初代会長にはオルコットが就任し、彼女は交信秘書となった。1877年には『ベールを取られたイシス』を出版し、協会設立からわずか2年で1000ページを超す大著を完成させた。上巻で科学の誤りを、下巻でキリスト教の誤りを論じ、心霊主義は止めるべきだと説いた。協会の活動は一時停滞した。
インドに注目するようになり、1878年12月にニューヨークを発って、翌年2月にボンベイに到着し、盛大な歓迎を受けた。キリスト教を拒否してインド思想を取り込んだ協会は、インド人から歓迎された。この頃から、マハトマと呼ばれるマスターの存在が主張されるようになり、輪廻転生説やカルマ説も導入された。1882年に本部をアディヤールに移し、1884年にオルコットとともにヨーロッパを訪問した。その間、旧友だった本部職員が、解雇の腹いせにマハトマの手紙の「真相」を暴露して大騒動になった。心霊研究協会の調査員は、神秘的な現象はトリックだと結論づけて1885年に公表し、彼女は詐欺師だという認識が広がった。
騒動から逃げるようにヨーロッパに戻り、1887年にロンドンに到着してロッジを開いた。機関紙『ルシファー』を創刊し、1888年から翌年に主著『シークレット・ドクトリン』を、1889年に『神智学の鍵』を出版し、1888年には秘教部を開設した。1891年にロンドンで死去した。その思想は、芸術家のスクリャービンやカンディンスキーにも影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン・スタス (1891年没)
- ジョヴァンニ・モレッリ (1891年没)
- Konstantinos Paparrigopoulos (1891年没)
- アントニオ・チゼリ (1891年没)
- テオドール・アマン (1891年没)
同じ地域に関係する人物
- Tom Kristensen (1974年没)
- ユージン・サンドウ (1925年没)
- メアリー・オブ・テック (1953年没)
- チャールズ・バベッジ (1871年没)
- ジェームズ・バリー (1865年没)