伝記
チャールズ・バベッジは、イギリスの数学者であり、哲学者、計算機科学者でもある。世界で初めて「プログラム可能」な計算機を考案した人物として知られ、「コンピュータの父」と呼ばれることもある。生まれたのはロンドンで、正確な生誕地には議論があるが、ウォルワース・ロードの近くではないかとされる。生年は1791年12月26日とされるが、『タイムズ』紙の死亡記事は1792年としており、洗礼が1792年1月6日だったという教会の記録は1791年説を裏付けるものと見られている。父ベンジャミンは元は金細工師だった裕福な銀行家で、母はベッツィーである。
裕福な家に育ち、小学校のころから複数の家庭教師をつけられた。10歳のとき命にかかわる高熱を出し、療養をかねてエクセター近郊の田舎の学校に通うようになった。両親は学校に「あまり脳に負担をかけないように」と依頼し、本人は後に、こんなに暇では馬鹿になるかもしれないと思ったと述べている。その後、ホルムウッド・アカデミーで膨大な蔵書に触れて数学に興味を持った。1810年10月にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学すると、ライプニッツやラグランジュらの著作を読みふけり、大学の数学教育の水準の低さに失望した。そこで1812年、ジョン・ハーシェルらとともに学内に研究会を設立した。同じ年に別のカレッジに移って数学者の筆頭となったが、卒業はできず、名誉学位が試験なしで1814年に与えられた。
1814年7月にジョージアナ・ホイットモアと結婚し、8人の子をもうけたが、成人したのは4人だけだった。1827年9月に妻が亡くなり、同年に父、次男、生まれたばかりの末っ子も相次いで世を去った。その後1年をかけてヨーロッパ大陸を旅したため、階差機関の構築は遅れることになった。当時の数表は、計算手と呼ばれる大勢の人間が単純な計算を流れ作業でこなして作られており、ケンブリッジでこの方法の誤り率の高さを見ていた彼は、数表作成の機械化をライフワークにした。1822年に多項式関数の値を計算する階差機関の設計を始め、同年6月14日にその論文を王立天文学会に提出した。有限差分法を使うため、乗除算を使わずに関数の値を計算できた。政府から10年以上にわたり総額1万7000ポンドの資金援助を受けたが、最終的に信頼を失って打ち切られ、機械は完成しなかった。
階差機関の製作が破綻して間もなく、さらに汎用的な解析機関を構想し始め、没する直前まで設計を改良し続けた。解析機関ではパンチカードでプログラムを組むことができ、逐次制御、分岐、ループといった現代のコンピュータのような特徴をいくつか備えていた。エイダ・ラブレスはこの構想を完全に理解していた数少ない人物で、ベルヌーイ数を計算するプログラムを作り、世界初のプログラマと言われる。バベッジは1824年に王立天文学会ゴールドメダルを授与され、1828年から1839年までケンブリッジのルーカス教授職を務め、1834年の統計学会創立にも尽力した。暗号解読でも業績を残し、1838年にはカウキャッチャーを発明したとされる。1871年10月18日に79歳で死去した。1991年にはロンドンのサイエンス・ミュージアムで、彼の設計に基づく階差機関2号機が完成し、完全に機能したと伝わる。
同じ年に亡くなった人物
- トマス・ユーイング (1871年没)
- ヘンリー・スタインウェイ (1871年没)
- アレクサンダー・フォン・メンスドルフ=プイリー (1871年没)
- ガエターノ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1871年没)
- Saint Kuriakose Elias Chavara (1871年没)
同じ地域に関係する人物
- トーマス・ハリオット (1621年没)
- アーサー・エドワード・ウェイト (1942年没)
- ジェイムズ・オールドリッジ (2015年没)
- ロナルド・レイシー (1991年没)
- ジョージ・ギルバート・スコット (1878年没)