HISTORICAL PERSON · 1891年没

ジョルジュ・オスマン

1853年から1870年までセーヌ県知事を務め、ナポレオン3世と共にパリ改造を進めた。広い大通りの建設や上下水道の整備を行い、その計画は各地の都市建設の手本となり現在のパリの原型となった。

生涯
1891年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンは、1809年3月27日にパリで生まれた19世紀フランスの政治家である。アルザス出身の家庭に生まれ、1853年から1870年までセーヌ県知事を務めた。その間に皇帝ナポレオン3世とともにパリ市街の改造を進め、現在のパリ市街の原型をつくった。父はナポレオン1世に仕えて財政面を担当していたため、パリの金融界に顔が利いた。この人脈は、のちの立身出世に役立ったとされる。祖父の一人は国民公会の議員で、もう一人は男爵に叙されたナポレオン時代の将軍だった。コレージュ・アンリ4世とリセ・コンドルセで学び、法学を修めるかたわら、パリ音楽院で音楽も学んだ。1830年の七月革命には父とともに加わった。

1831年に公職に就き、ヴィエンヌ県の県庁部長に任じられ、20代での異例の出世といわれた。その後は郡長として各地に赴任したが、傲慢で独裁的な態度や上司に逆らう癖のために、県知事への昇進は見送られ続けた。1848年の二月革命で七月王政が倒れ、ルイ=ナポレオンが大統領に当選すると状況が変わった。1849年1月にパリで内務大臣と大統領に会い、七月王政以来の官吏として忠実とみなされて、まもなく県知事に昇進した。以後、ヴァール県、ヨンヌ県、ジロンド県と知事を歴任した。第二共和政の当初からルイ=ナポレオンを支持していたオスマンは、彼が1852年に国民投票を経てナポレオン3世として皇帝に即位すると、翌1853年にパリ市を含むセーヌ県知事に任命された。

最大の事業はパリ改造だった。入り組んだ路地裏を取り壊して幅の広い大通りを東西南北に通し、凱旋門や広場から放射状に延びる大通りも建設した。交通網が整って、市内の物流が大幅に改善された。シテ島は当時は貧民窟と化していたが、架橋や道路建設で雰囲気を一新させた。建築家を登用して、ルーヴル宮や新オペラ座などの建設も進めた。建造物の高さは一定に制限され、景観にも配慮がなされた。腕利きの部下アルファンの下で、ブローニュの森など四つの大公園が計画された。衛生面では、遠隔地から水源の水を導いて各戸給水を目指し、地下に回廊式の下水道網を張り巡らせてコレラ発生の抑止に貢献した。この一連の改造は「オスマン化」とも呼ばれ、各地の都市建設の手本ともされた。他方、中心部と周辺部の居住環境の差が開き、富裕層が中心部に住み、貧困層が周辺部へ追いやられる住み分けが進んだ。改造と並行してプランタンなどの大規模店舗(デパート)が次々に開店し、貴婦人が買い物を楽しむ習慣が形成され始めた。大規模な開発は鉄道敷設とあわせて、雇用の創出にもつながった。

1870年、内閣との対立から知事の職を退いた。同年末にナポレオン3世がスダンの戦いで捕らえられて失脚し、第三共和政に移った。パリ・コミューンの際、二月革命のときの路地裏が都市改造でなくなっていたため、コミューン側の兵士はバリケードを築きにくかったことが指摘される。辞職後は一時ボルドーの近くに移り、コルシカ島で一時公職に就いたが、晩年は回顧録の執筆に力を入れた。1857年に元老院議員、1862年にレジオンドヌール勲章のグラン・クロワを受けた。1891年1月11日にパリで亡くなった。

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