伝記
ジャン・ド・ラ・フォンテーヌは、17世紀フランスの詩人で、寓話作家である。1621年7月8日、現在のイル=ド=フランス北東の端に近いシャトー=ティエリで生まれ、1695年4月13日に亡くなった。父シャルルは公領の水利森林管理官を務め、母フランソワーズ(旧姓ピドゥー)とともに、貴族ではないが地方の最上層の市民の家柄で、父はかなり裕福だった。長男として地元の学院で学び、学業を終えると1641年5月にオラトリオ会に入り、同年10月には神学校に移った。しかし、ごく短い滞在で自分の天職を誤っていたと悟ったという。その後は法律を学び、弁護士として認められたともいわれる。
1647年に父が管理官の職を譲り、14歳のマリー・エリカールとの縁談も整えて、2万リーヴルの持参金と将来の期待をもたらした。妻は美しく聡明だったようだが、夫婦仲はうまくいかなかった。妻を巡る噂は、ずっと後になって彼の敵やうわさ好きの人々が広めたもので、根拠はない。妻は家事に無頓着で小説を読みふけるたちだったが、一方のラ・フォンテーヌ自身も家をあけてばかりで、夫婦の貞節に厳格ではなく、商才にも乏しかったため、財産は手に負えない状態になり、1658年に財産分離が行われた。これは円満な取り決めで、二人は争わないまま別々に暮らすようになり、晩年の約40年のほとんどを、彼はパリで過ごした。1653年に生まれた一人息子は、もっぱら母のもとで育てられた。
1656年ごろから、パリを頻繁に訪れるようになった。管理官の職務は時折のもので、離れて暮らすことと両立した。文学の道に入ったのは30歳を過ぎてからで、マレルブを読んで詩心を呼び覚まされたといわれるが、当初は警句やバラード、ロンドーなど、当時の流行にならった小品ばかりを書いていた。最初の本格的な作品は、テレンティウスの『宦官』の翻案(1654年)である。そのころフランスの文芸の庇護者だった財務卿フーケに、妻の縁者ジャック・ジャナールの紹介で近づき、1659年には年金1,000リーヴルを得た。四半期ごとに詩を一篇献じるだけの気楽な条件であった。フーケの別荘を詠んだ散文と韻文の混合作品『ヴォーの夢』にも着手した。フーケが王の不興を買って逮捕されると、彼は哀歌を書いて忠誠を示した。
その後、貴族の称号を不当に名乗っていたとして2,000リーヴルの罰金を科されたが、封建上の領主であるブイヨン公爵夫妻、とくに公爵夫人マリー・アンヌ・マンシーニに新たな庇護者を見いだし、問題は聞かれなくなった。1664年には、最初の重要な作品とされる『コント』第1巻を出版した。このとき43歳であった。のちにイソップ寓話をもとにした『寓話詩』(1668年)で知られ、「北風と太陽」や「金の卵を産むめんどり」などを残した。ヨーロッパ中の寓話作家の手本となり、長く王の疑いを受けたのちにアカデミー・フランセーズの会員となった。フランスでは小学生が授業で彼の寓話を暗唱する。
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