HISTORICAL PERSON · 990年没

藤原兼家

藤原師輔の三男で摂政関白太政大臣。兄兼通との摂関争いに敗れ不遇となったが、花山天皇を退位・出家に追い込み、外孫の一条天皇の摂政に就いて政権を掌握し、子孫が摂関を継いだ。妻に藤原道綱母がいる。

生涯
990年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

藤原兼家は、平安時代中期の公卿である。延長7年(929年)に、右大臣・藤原師輔の三男として生まれた。最終官位は従一位・摂政関白太政大臣で、東三条大入道殿と呼ばれた。一条天皇と三条天皇の外祖父にあたり、藤原北家九条流の祖である。妻の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる。

村上朝の天暦2年(948年)に従五位下となり、侍従、右兵衛佐、少納言、兵部大輔、左京大夫などを歴任した。康保4年(967年)に冷泉天皇が即位すると、兄の兼通の後任として蔵人頭に補され、左近衛中将にも任ぜられるなど、急に要職へ抜擢された。安和元年(968年)には娘の超子が非公卿の娘として初めて女御宣下を受け、兼家自身も兼通に先んじて公卿に列し、翌年には参議を経ずに中納言となった。長兄の伊尹が摂政となると重用され、天禄3年(972年)には大納言に進み、右近衛大将と按察使も兼ねた。

しかし同年10月、重病の伊尹が辞表を出すと、後任の摂関をめぐって兼家と兼通が円融天皇の前で口論した。席次は大納言の兼家が上で、世間も次は兼家と見ていたが、兼通は妹で天皇の母后だった安子の自筆の文を献じ、天皇はこれに従って兼通を関白とした。以後、兼家は不遇の時期を過ごす。次女の詮子を円融天皇の女御に入れようとしても兼通の讒言で退けられ、兼通は「できることなら九州にでも遷してやりたいが、罪がないのでできない」と言い放ったという。貞元2年(977年)、兼通が重態になると兼家はすぐ後任を求めて参内した。そのため兼通は激怒し、病身で参内して最後の除目を行い、後継に小野宮流の藤原頼忠を指名し、兼家の右近衛大将と按察使の兼官を奪って治部卿とした。兼通の没後、兼家は長歌を献上して失意を伝えたが、しばらく待つようにとの返歌を受けた。

天元元年(978年)に右大臣となって廟堂に返り咲き、詮子の入内も果たした。天元3年(980年)に詮子は懐仁親王(のちの一条天皇)を産んだが、円融天皇が天元5年に頼忠の娘の遵子を中宮に立てたため、兼家は失望し、詮子と懐仁親王とともに東三條殿に引き籠もった。永観2年(984年)、天皇から懐仁親王を東宮にするとの約束を得て喜び、同年8月に円融天皇が譲位し、花山天皇が即位して懐仁親王が東宮に立てられた。しかし関白には頼忠が留まり、甥の藤原義懐が朝政を主導した。寛和元年(985年)に花山天皇の寵愛した女御・忯子が急死して天皇が世を棄てると言い出すと、兼家の一派は翌年6月、三男の道兼の手引きで天皇を宮中から連れ出し、元慶寺で出家させて退位に追い込んだ。義懐も出家して失脚した。これが寛和の変である。

懐仁親王が即位して一条天皇となり、兼家は外祖父として摂政・氏長者となった。天皇の外祖父の摂政就任は、藤原良房以来のことであった。上位に頼忠と源雅信がいたため、従一位・准三宮の待遇を受けて右大臣を辞し、大臣を兼ねない摂政となって、すべての人臣の上に立った。子の道隆・道兼・道長らを次々に公卿に抜擢し、自邸の東三条殿を清涼殿に模して建て替えるなど、自らの家系の地位を高めた。一方で新制を発布し、梅宮祭・吉田祭・北野祭を公祭と定めて、のちの二十二社制度の基礎を作った。永祚元年(989年)には道隆を内大臣とし、史上初の大臣4人制を実現した。同年12月に太政大臣となり、翌永祚2年(990年)正月に一条天皇の加冠役を務めた。5月に摂政から関白に移ったが、わずか3日で病を理由に道隆へ関白を譲って出家し、如実と号した。二条京極殿を法興院という寺に改めて住み、約2ヶ月後の7月2日に亡くなった。享年62。

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