伝記
ドロミカイテスは、紀元前300年ごろにドナウ川下流の両岸に住むゲタイ人を治めた王である。現在のルーマニアとブルガリアにまたがる地域がその領域にあたる。治世、宮廷、王国についてはあまり多くが知られていない。
ゲタイ人は紀元前5世紀にはオドリュサイ王国に組み込まれていたが、その後の両者の関係がどう推移したかは分かっていない。紀元前352年から340年にかけてのマケドニアのフィリッポス2世によるバルカン遠征でオドリュサイの権威は砕かれ、ゲタイ人はこの状況から利益を得た。前4世紀後半には、ゲタイ人はドナウ川下流の両岸に拠点を築き、この地域はかつてない繁栄を見せた。強大な軍事力に支えられたマケドニアの新たな征服は隣接地域に動揺を与え、そのことがゲタイ人の諸部族の政治的な結合を促したという。名の語源には定説がなく、ギリシア語で「走る」と「長い髪の」にあたる語から成る名とも、トラキア語の名とも、ギリシア語の要素を使ったトラキア語の名ともいわれる。
最も詳しい記述は、ディオドロスの歴史の二つの断片に見られる。ただし文学的な型の混入があるため、史料としては慎重な扱いが必要である。それによれば、王の主な居所はヘリスといった。従来、ヘリスは王国とともにドナウの北のルーマニア平原にあったとされ、ヤロミツァ川沿いのピスクル・クラサニ、アルジェシュ川沿いのポペシュティ、ドナウ左岸のジムニチェアなどに比定された。モルダヴィア台地の要塞集落群にあったとする説もある。1982年に発見されたブルガリア北東部スヴェシュタリのゲタイ人の墓所の近くだとする見方もあり、そこでは大きな古代都市の遺構と多数のゲタイ人の墳墓が見つかった。この集落は紀元前335年から前250年ごろまで存在し、エーゲ海や黒海のギリシア人植民市と盛んに交易して栄え、金属や骨、陶器の工房を備えた生産の中心でもあった。
ドロミカイテスの名を最も有名にしたのは、アレクサンドロス大王の元将軍リュシマコスとの戦いである。紀元前313年の第三次ディアドコイ戦争のとき、黒海西岸のギリシア人植民市がリュシマコスに反乱を起こし、守備隊を追い出した。リュシマコスはオデッソスとヒストリアを次々に包囲して降伏させ、311年には和約が結ばれたが、カラティスの包囲は310年か309年まで続いた。その後、紀元前290年代にドロミカイテスと衝突するまで、ハイモス山脈の北でのリュシマコスの行動は知られていない。この争いに関する証拠は不完全で食い違いもあるが、複数の古代の著者が伝えている。領土の拡張や、ギリシア人植民市の支配が争点だったのかもしれない。
ディオドロスの二つの断片は二度の遠征を示唆する。最初の遠征ではゲタイ人がリュシマコスの子アガトクレスを捕らえたが、失われた領土の回復を期待して解放した。二度目ではリュシマコス自身が捕らえられ、同じような条件で釈放された。ただしパウサニアスは同じ二つの出来事に触れながら、それが一つの出来事の並行する異伝だと示唆している。リュシマコスが捕らわれた遠征の年代は、学者により紀元前294年から291年のあいだとされる。リュシマコスは大軍で侵入し、初めは成果を上げたが、結局は惨敗した。ポリュアイノスによれば、ドロミカイテスの将軍セウテスが脱走兵を装ってリュシマコスを欺き、険しい土地に導いた。そこでドロミカイテスに攻撃された軍は敗れ、王は降伏した。捕囚と解放についての唯一の記述はディオドロスのもので、ドロミカイテスは、敵の王を解放すれば、より大きな政治的利益がもたらされると同胞の集会を説得したという。
同じ年に亡くなった人物
- ベロッソス (紀元前 300年(推定))
- アブデラのヘカタイオス (紀元前300)
- アウルス・アティリウス・カラティヌス (紀元前 300年(推定))
- アニュテー (紀元前 300年(推定))
- アリスティルス (紀元前300)
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