伝記
イッズ・アッダウラ、本名バフティヤールは、ブワイフ朝のイラク首長(在位967〜978年)である。978年に没した。父はムイッズ・アッダウラで、三人の兄弟がいた。
955年春、父ムイッズ・アッダウラが重い病にかかり、息子を後継者に指名した。それから5年後、カリフがこれを正式に認めて「イッズ・アッダウラ」の称号を授けた。父が軍事遠征に出ているあいだは、バグダードで統治にあたった。967年に父が没すると、その跡を継いだ。父は遺言でいくつかの助言を残しており、トルコ人の指揮官セビュク・テギンを引き続き用いること、叔父ルクン・アッダウラを上位の首長として認め、従兄弟アドゥド・アッダウラを敬うことを勧め、モスルのハムダーン朝の首長アブー・タグリブへの対処法も示していた。
970年、軍内のダイラム人とトルコ人の対立を収めるため、イッズ・アッダウラはトルコ人の有力者との婚姻を重ねて両者の結びつきを強めようとした。父の方針を受け継いでイラクの湿地帯を治めるシャーヒーン朝との戦いを続けたが、打ち破ることはできなかった。ビザンツ帝国との国境は、カリフが対処すべき問題だとして顧みなかった。971年にヨハネス1世ツィミスケス率いるビザンツ軍が北メソポタミアの大部分を席巻したときも、バグダードに戻ることすらしなかった。イラクの防衛を自ら引き受けたのはセビュク・テギンで、彼はブワイフ家からしだいに疎外感を抱くようになった。
財政難にも悩まされ、973年には父の助言に背いてモスルの首長国に侵攻したが、この遠征は惨憺たる結果となった。アブー・タグリブ率いるハムダーン朝軍がバグダードへ進軍し、セビュク・テギンも密かに彼らを支援していたらしい。そこで財政難を解決しようと、大半がフーゼスターンにあったトルコ人の封土を取り上げ、同時にセビュク・テギンを解任した。トルコ人は反乱を起こし、イッズ・アッダウラはワーシトに立てこもった。セビュク・テギンはバグダードを譲る代わりに南イラクを求めたが退けられ、ワーシトを包囲した。ルクン・アッダウラはアドゥド・アッダウラに救援を命じた。アドゥド・アッダウラは以前イッズ・アッダウラの無能を理由に排除を主張していたが、命令には従った。ただし進軍はできるだけ遅くした。それでもイッズ・アッダウラは持ちこたえ、包囲中にセビュク・テギンが死んだ。アドゥド・アッダウラは彼をバグダードに復帰させたが、まもなくダイラム人傭兵の反乱が起こり、これを機に従兄弟を退けた。直接イラクを治めようとしたが、ルクン・アッダウラが強く反対したため、イッズ・アッダウラはその副王とされた。アドゥド・アッダウラがシーラーズへ去ると、すぐに服従を取り消した。
976年にルクン・アッダウラが没すると、ブワイフ朝は混乱に陥った。イッズ・アッダウラはアドゥド・アッダウラが上位の首長の地位を継ぐことを認めず、新しい称号を名乗り、カリフの娘の一人と結婚して、カリフが自らの方針に同意した証とした。アドゥド・アッダウラはイラク侵攻の準備を進め、977年、軍と同盟者を整えていたイッズ・アッダウラはフーゼスターンで敗れ、ワーシトへ退いた。そこで新たな軍を集めたが、従兄弟どうしは交渉に入った。長い交渉の末、ハムダーン朝と結ばないことを約束する代わりにシリアへの通行の自由を認められたが、この約束を破ったため戦いが再開した。978年春、イッズ・アッダウラとハムダーン朝はサーマッラーで敗れ、イッズ・アッダウラは捕らえられた。まもなくアドゥド・アッダウラの同意のもとで処刑された。
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