HISTORICAL PERSON · 754年没

サッファーフ

アッバース朝の初代カリフ。750年に即位して内外の敵に勝利し、跡を継いだ兄マンスールの国家建設の基盤を築いた。

生涯
754年没
死亡地
イラク共和国(アンバール県)
出生地
ヨルダン(Humeima)
出典
世界地図
イラク共和国(アンバール県)

伝記

サッファーフ(アブー・アル=アッバース・アブドゥッラー・イブン・ムハンマド)は、アッバース朝の初代カリフ(在位750年1月25日から754年6月)である。722年(721年または722年とも)の生まれとされ、ヨルダン南部のフマイマ村で、アッバース家の家長ムハンマド・イブン・アリーと、ハーリス家のライタの子として生まれた。預言者ムハンマドの叔父アッバースの家系に連なる血筋が、彼のカリフ位の主張の根拠となった。前半生ははっきりしていない。

743年に父が没すると、兄イブラーヒームがウマイヤ朝打倒の運動を引き継いだ。ホラーサーン地方に派遣された宣教師アブー・ムスリムは現地で蜂起し、ホラーサーンの軍を率いてイラクへ進んだ。748年にイブラーヒームがウマイヤ朝に投獄されると(翌年に獄死、または処刑された)、アブー・アル=アッバースは兄アブー・ジャアファルらとともにクーファへ避難した。749年9月(英語版は10月初め)に革命軍がクーファに入ると、新しい指導者を誰にするかが問題となった。シーア派の要人アブー・サラマは同派の人物を望んだが、革命軍が先んじてアブー・アル=アッバースを推戴して忠誠を誓い、アブー・サラマもやむなく即位を認めたという。11月28日、クーファの金曜礼拝の説教で、革命に協力した者への褒賞を約束し、自らを「サッファーフ」と称した。この称号は「惜しみなく注ぐ者」の意とされるが、「血を流す者」とも解され、苛烈な粛清と結びつけて付けられたとする説もある。兄が奴隷出身の女性の子であったことや、アブー・ムスリムらが兄より御しやすいと見たことが選出の理由と推測されている。

即位の時、シリアはなおウマイヤ朝のカリフ、マルワーン2世の支配下にあった。750年1月、叔父アブドゥッラーが大ザーブ川のほとりでマルワーン2世を破り、ダマスカスを落としてシリアを征し、8月にはエジプトに逃れた王を殺害した。同年、アブー・ジャアファルらがワーシトに立てこもった総督ヤズィードを破った。サッファーフは潜伏するウマイヤ家の一族を狩り、750年6月25日には一族の80人を宴に招いて兵に襲わせたと伝えられる。ただ、この虐殺は後世の逸話として語られる面もある。この一族からは、のちにイベリア半島に逃れてコルドバで後ウマイヤ朝を開くアブド・アッラフマーン1世が出た。ウマイヤ家への苛烈な攻撃は同情を呼び、シリアとメソポタミアで反アッバース家の反乱が起きたが、サッファーフは政治的な手段で鎮め、有利な条件を示された反乱者は帰順した。また、かつてアリー家の人物の擁立を考えたアブー・サラマの暗殺も、アブー・ジャアファル、アブー・ムスリムと謀り、アブー・ムスリムが送った刺客に実行させた。

一族を各地の総督に配し、752年にはアンバール近郊を首都に定めた。751年7月にはタラス河畔の戦いで唐に勝利している。しかし中央集権化を進める政府とホラーサーン勢力の関係は悪化し、754年にはアブー・ムスリムがアンバールを訪れたが、アブー・ジャアファルの進言にもかかわらず、サッファーフは暗殺をためらい、計画は実行されなかった。754年6月、アンバールで天然痘のため病没した(没日は10日とも8日とも伝わる)。跡は生前に指名していたアブー・ジャアファル、すなわちマンスールが継いだ。統治の四年間は国家の再建と基盤固めに費やされ、ユダヤ教徒、ネストリウス派のキリスト教徒、ペルシア人も政府に多く登用されたという。彼は任務に忠実で寛大な君主と評され、当時の慣習に反して妻は寵愛したウンム・サルマ一人だけだったという。

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