伝記
ロバート・ブラウニングは、1812年5月7日にロンドン南東の郊外サリー州のキャンバウェルで生まれたイギリスの詩人である。女性詩人エリザベス・バレット・ブラウニングの夫であり、彫刻家ロバート・バレット・ブラウニングの父にあたる。父は、自身の父と同じくイングランド銀行に勤めた教養ある穏やかな人物で、子供たちと居間の椅子や机でトロイア攻囲戦を再現して遊ぶこともあった。母は音楽家であった。蔵書家の父と音楽家の母のもとで、豊かな蔵書に自由に触れ、旺盛な知的好奇心から膨大な知識を身につけた。当時の上流階級の慣習から、正規の学校教育を受ける機会はわずかであり、学校に通うことを嫌ったため、中等や高等の教育は長続きせず、彼は独自の幅広い学びの道を歩んだ。12歳で詩集を作り、14歳でギリシア語とラテン語を習得して、古典に読みふけった。
21歳から詩や戯曲を発表したが、あまりにも難解だったと言われる。作品はいずれも野心的で、長く、ときに難しい言葉で書かれ、聴衆も批評家もその独創性にたびたび当惑した。そうした独創性は私生活にも現れた。部屋に籠もっていたエリザベス・バレットの詩集を読んで感嘆した彼は、賛辞の手紙を送り、そこから恋の文通が始まった。それは1846年、34歳のときに、駆け落ちと結婚、イタリアへの逃避行に結びついた。6歳年上の彼女との結婚は、彼女の父の反対にあい、夫妻はフィレンツェに移り住んだ。二人はイタリアを旅し、詩集を出して15年を過ごしたが、1861年に妻が亡くなると、彼はロンドンに戻り、文学界のサークルやクラブに加わった。
代表作には劇詩「ピッパが通る」(1841年)があり、とくにその一節「神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し」は広く知られる。『劇的抒情詩』『男と女』などの詩集では、聴き手に向けて語る人物の独白という手法、劇的独白を用いた。語り手の人格が、その言葉だけから次第に立ち上がり、危機に達した状況や、登場人物たちの葛藤とその結末が、ときに劇的に、ときに悲劇的に現れる。55歳のとき、17世紀のローマで起きた実際の殺人事件をめぐって、10人の異なる証言で構成した壮大な物語詩『指輪と本』を発表し、ようやく当代一流の詩人と認められた。晩年は15冊もの新しい詩集を出し、しばしば長大で、ときには論争的だった。ヨーロッパを巡った末にイタリアに戻り、息子の住むヴェネツィアで、最後の詩集が刊行された日の1889年12月12日に客死した。ウェストミンスター寺院の詩人の一隅に、テニスンの隣に葬られている。語りの声の質感をそのまま写す彼の詩は、後のエズラ・パウンドやエリオットら若い世代の詩人にも影響を与えた。
日本では、上田敏の訳詩集『海潮音』(1905年)の「春の朝」で親しまれた。この詩はもとは独立した短詩ではなく、「ピッパが通る」の一節である。夏目漱石もこの詩人を愛し、『三四郎』で与次郎が連発する謎めいた言葉は、ブラウニングの詩「騎馬像と胸像」から引いたとされる。芥川龍之介は「ブラウニング信者」を自称し、『指輪と本』を下敷きにして『藪の中』(1922年)を書いたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- アルブレヒト・リッチュル (1889年没)
- ミハイ・エミネスク (1889年没)
- ルドルフ (オーストリア皇太子) (1889年没)
- ハインリヒ・グスタフ・ライヘンバッハ (1889年没)
- ガストン・プランテ (1889年没)
同じ地域に関係する人物
- カレル・デュジャルダン (1678年没)
- フランチェスコ・ブッソーネ・ダ・カルマニョーラ (1432年没)
- アルドゥス・マヌティウス (1515年没)
- アレッサンドロ・ヴィットーリア (1608年没)
- マリアノ・フォルトゥーニ・イ・マドラソ (1949年没)