HISTORICAL PERSON · 1889年没

ミハイ・エミネスク

ルーマニアとモルドバで詩聖と称えられる近代ルーマニアの詩人。文学協会ジュニメアで活動し、保守党の公報紙『ティンプル』の編集も務めた。ウィーンで学び、風刺詩や5つの手紙などで知られる。

生涯
1889年没
死亡地
ルーマニア(ブカレスト)
出生地
ルーマニア(ボトシャニ)
出典
世界地図
ルーマニア(ブカレスト)

伝記

ミハイ・エミネスクは、1850年1月15日にルーマニアのボトシャニで生まれた詩人で、ルーマニアとモルドバで詩聖と称えられる近代ルーマニア最良の詩人である。本名はミハイル・エミノヴィチという。父ゲオルゲはブコヴィナ地方のルーマニア人の家系の出身で、1840年にモルダヴィアの上流階級の娘ラルカ・ユラシュクと結婚し、ボトシャニ近郊のイポテシュティ村に定住した。夫婦には11人の子が生まれ、ミハイは7番目であった。幼少期を両親の実家のボトシャニとイポテシュティで過ごし、1858年から1866年までチェルナウツィの学校に通った。ギムナジウムには2年通い、82人の生徒中5番目の成績で卒業している。

作家としての最初の足跡は16歳の1866年にある。ギムナジウムのルーマニア人教師アロン・プムヌルが亡くなると、教え子たちが出した小冊子に、彼の詩「アロン・プムヌルの墓で」が掲載された。2月25日付けの詩「もし私が持っていたなら」は、ハンガリーのペシュトでヨシフ・ヴルカンが編集する文学雑誌『ファミリア』に紹介された。これを機に、詩の発表が定期的に始まる。ヴルカンは、名の末尾にスラヴ系を思わせる接尾辞が付くのを嫌い、よりルーマニア人らしい筆名を望んだことから、ミハイ・エミネスクと名乗るようになった。1867年には事務員兼プロンプターとして劇団に参加し、翌年は別の劇団に移った。ブカレストに腰を落ち着け、事務員兼写字生として働くかたわら、小説や詩を書き続け、翻訳の仕事で何百ページも訳して家賃を払った。1869年には仲間と文学サークル「東洋」を共同創設した。

1869年から1872年はウィーンで学び、哲学と法学の臨時聴講生として活動的に過ごした。文学協会「ジュニメア」の機関誌『文学の対話』にも寄稿し、「ジュニメア」の指導者たちの活動は、彼の半生の政治的、文化的な背景に大きな影響を与えた。1872年から1874年は、ジュニメアからの給料のおかげでベルリンに学生として留まった。1874年から1877年は、ヤシの中央図書館の理事などとして働いた。1877年にブカレストに移り、1883年まで保守党の公報紙『ティンプル』の最初の編集長を務めた。この時期に名作「古代の韻による叙事詩」、風刺詩「手紙」が生まれた。露土戦争期の外交の争いのなかで、ユダヤ教徒への市民権授与を独立承認の条件とする動きに反対し、ベルリン条約の条項に抵抗する記事を編集した。

1883年6月に精神錯乱を発症し、医師の病院に強制収容された。同年12月、ティトゥ・マヨレスクが選んだ選集『ポエジー』が出版され、これが生前に出た唯一の詩集となった。1884年1月に父が亡くなり、その後入退院を繰り返した。晩年は双極性障害に苦しみ、1883年に梅毒と診断されたと伝えられるが、その診断には疑問も残る。1889年6月15日、ブカレストの病院で39歳で亡くなり、その検死は不十分で、本当の死因は謎のままである。最も有名な詩「金星ルチャーファル」をはじめ、彼の詩は60を超える言語に訳されている。詩人はショーペンハウアーの業績に影響を受けたとされる。ルーマニアの公立学校では彼の詩を学ぶことが必修で、しばしば「金星」の暗記や検討が高校の卒業試験の必須項目になっている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物