HISTORICAL PERSON · 1889年没

ルドルフ (オーストリア皇太子)

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇太子。父帝との対立などで孤立し、男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツェラと謎の死を遂げた。

生涯
1889年没
死亡地
オーストリア共和国(ニーダーエスターライヒ州 / マイヤーリンク)
出生地
オーストリア共和国(ラクセンブルク)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ニーダーエスターライヒ州)

伝記

ルドルフは、1858年8月21日にウィーン郊外のラクセンブルク宮殿で、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の第一皇子(第三子)として生まれた皇太子である。母は美貌で知られた皇后エリーザベトであった。ハプスブルク家の世継ぎとして期待されたが、父帝との反目や政治的な対立から孤立し、1889年1月30日、男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツェラとともにマイヤーリンクで世を去った。その死は今なお謎に包まれている。

幼少期は祖母の大公妃ゾフィーに養育され、当初の教育係の伯爵は、鞭打ちや冷水シャワー、過酷な運動といった軍事教練まがいのスパルタ式の教育を押し通した。その影響でルドルフは神経過敏で虚弱な、恐怖心の強い子供となり、内気で意固地で、ことあるごとに殻に閉じこもった。1865年、母エリーザベトがその教育の影響を憂えて親権の返還を求め、7歳以降の教育方針は一転した。母が付けた教育係はラトゥールで、選ばれた教師のほとんどが何らかの形で自由主義と関わりをもっていた。このため、成人後のルドルフは自由主義を信奉し、自らの出自にもかかわらず貴族に対して批判的な態度を取った。18歳までに教えた教師は同時に30人以上いたこともあるといわれる。ラトゥールは、生涯にわたって連絡を取り続けた精神的な「代父」であり、自由主義系の新聞『新ウィーン日報』の編集長を通じて、後のフランス首相クレマンソーと知り合ったのも、こうした人々の手引きによる。

ルドルフは父帝の保守的な思想とは異なり、母と同じ自由主義的な思想を持ち、父帝に強く反発して、その絶対君主ぶりを激しく非難した。一方、母は各地を旅して過ごしたため、息子の理解者にはなれなかった。ウィーン庶民の娯楽の場ホイリゲにもよく足を運び、庶民の心情を写す民衆歌シュランメルンを好んだ。自由主義を土台に貴族を批判する匿名のパンフレット『オーストリアの貴族とその使命』(1878年)を書き、『新ウィーン日報』にも投稿した。担当教師の一人だった動物学者アルフレート・ブレームの弟子として、鳥類学の論文やエッセイも多く書いた。広大な帝国の文化と歴史をまとめた24巻の事典『絵と文章で綴るオーストリア=ハンガリー帝国』の編纂も務め、初巻と第2巻の多くはルドルフ自身の文章であった。1880年代に保守派が再び力を得ると、自由主義を固持するルドルフの政治的立場は不安定になった。

1881年にベルギー国王レオポルド2世の次女ステファニーと結婚し、1883年に娘エリーザベト・マリーが生まれたが、夫婦仲は冷え切っていた。ルドルフはビスマルクに不信感を抱き、帝国のドイツ頼みの政策を嫌って、ロシアやフランスとの同盟を構想した。そのことが新聞に暴かれ、1889年1月26日に父帝から激しい叱責を受けた。1888年末ごろに出会った若いマリー・ヴェッツェラと親しくなり、教皇に離婚を求める書簡を送ったが、これも知れ渡って父帝の怒りを呼んだ。1889年1月30日の朝、マイヤーリンクの狩猟館の部屋から銃声が聞こえ、執事が内側から施錠された扉を斧で破ると、ルドルフとマリーがベッドの上で亡くなっていた。事件ははじめ「心臓発作」と報じられ、のちに「情死」としてヨーロッパ中に伝わって、さまざまな憶測を呼んだ。1983年には最後の皇后ツィタが、情死ではなく暗殺だったと語ったが、真相は明らかになっていない。

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