伝記
アブド・アッラフマーン3世は、後ウマイヤ朝の第8代アミールで、初代のカリフでもある。912年から929年までアミール、929年から961年10月17日まではカリフとして在位した。第7代アミール、アブド・アッラー・ブン・ムハンマドの孫にあたる。生年は889年とも890年とも891年ともいわれ、コルドバで890年12月18日に生まれたとされる。母はキリスト教徒の側室ムズナで、祖母もまたキリスト教徒の姫であった。アブド・アッラフマーン自身は色白で青い目をし、赤みがかった金髪をアラブ人らしく見せるため黒く染めていたと伝えられる。
幼いころに父ムハンマドは、叔父アル=ムタッリフに暗殺されたとされる。アブド・アッラフマーンは母の後宮で育ち、教育はアル=ムタッリフの姉妹に委ねられた。912年10月、祖父のアミールが72歳で亡くなると、生き残っていた息子たちを差し置いて、孫の彼が後継者に選ばれた。祖父は生前から彼を可愛がり、自分の塔に住まわせ、祝祭では玉座に座らせ、病の床では権力の象徴である指輪を彼に渡していた。即位は翌日に平穏に行われ、当時は21歳か22歳ほどであった。
受け継いだ国は解体の瀬戸際にあり、支配は首都コルドバ周辺に及ぶかどうかであった。北ではキリスト教国が国土回復運動を進め、南の北アフリカではファーティマ朝が勢力を伸ばし、国内ではムワッラド(イベリア出身のイスラム教徒)の貴族が反乱を重ねていた。最大の反乱勢力を率いたのが、ボバストロを拠点とするイブン・ハフスである。即位から十日以内に、反乱の指導者の首をコルドバで晒したという。以後は毎年遠征を行い、東欧出身の奴隷サカーリバを宮廷に取り入れて、アラブ系とベルベル系の争いを抑えようとした。918年にイブン・ハフスが死ぬと、その息子たちとも戦い続け、928年に南部を平定した。
929年1月、カリフを宣言し、アン=ナースィル・リッディーニッラー(神の宗教のための勝利者)のカリフ号を名乗った。これによりイスラーム世界には、バグダードのアッバース朝、マフディーアのファーティマ朝、コルドバのウマイヤ朝のカリフが並び立った。カリフ国の成立を926年とする説もある。930年には自ら兵を率いてトレドへ向かい、包囲の末、932年に降伏させた。937年には長い包囲の末にサラゴサを陥落させた。939年のシマンカスの戦いでは、味方からの情報漏洩もあって、レオン王国とカスティーリャ伯国の連合軍に敗れ、傷ついた誇りから、以後は自ら軍を率いなくなった。しかし940年には、レオン王国が三つの辺境から進軍を受け、国力の差に屈して和平を申し出た。治世の末期の958年には、レオン王国が忠誠を誓い、軍事的援助を求めるに至った。
文化と外交にも力を注いだ。ユダヤ人の医師で助言者でもあったハスダイ・イブン・シャプルートは、東ローマ帝国から送られたディオスコリデスの薬学書を、東ローマの僧ニコラスとともにギリシア語から正確に改訳した。この書はすでにバグダードで翻訳されていたが、不正確だったという。946年には、コルドバのモスクに新しいミナレットを建てさせ、傾きかけていた礼拝室の中庭側の正面も補強した。首都コルドバは商業都市として栄え、人口は30万人以上とされる。近郊に離宮都市ザフラー宮殿の建設を始め、居城としたが、完成は彼の死後であった。レオン王サンチョ1世や神聖ローマ皇帝オットー1世にも使節を送った。961年に亡くなり、子のハカム2世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ヘレネ・レカペナ (961年)
- アブド・アル=マリク1世 (961年没)
- Michael Maleinos (961年)
- ホーコン1世 (ノルウェー王) (961年没)
- アブル=カースィム・アヌージュール・ブヌル=イフシード (961年)
同じ地域に関係する人物
- ホセ・ビジャロンガ (1973年没)
- アブー・ウバイド・バクリー (1094年没)
- アブー・アル=カースィム・アッ=ザフラウィー (1013年没)
- イブン・フィルナース (887年没)
- ヒシャーム2世 (1013年没)