伝記
ユリシーズ・S・グラントは、1822年4月27日にオハイオ州ポイント・プレザントで生まれたアメリカ合衆国の軍人、政治家である。南北戦争時の北軍の将軍で、第18代大統領を務めた。出生時の名はハイラム・ユリシーズ・グラントで、父は製革業者のジェシー・R・グラントであった。一家は1823年秋にジョージタウンへ移り、グラントは17歳になるまでほとんどそこで過ごした。17歳のとき、下院議員の推薦でウェストポイントの陸軍士官学校に入ったが、議員が誤って「ユリシーズ・S・グラント」と登録してしまった。本人はこの名が気に入ったようで、以後はこの名で通し、ミドルネームのSは母の旧姓シンプソンから取ったと説明した。1843年に39人中21番で卒業し、同年8月22日にジュリア・ボッグズ・デントと結婚して、4人の子をもうけた。
米墨戦争ではテイラー将軍とスコット将軍の配下で従軍し、モリノ・デル・レイの戦いでの功績で中尉に昇進したが、1854年7月に多量の飲酒を理由に軍を辞した。その後は農場経営や不動産仲介を経て、イリノイ州ガリーナで父の皮革・金物店の経理助手となった。南北戦争が起こり、1861年4月に志願兵を連れてスプリングフィールドに到着すると、知事から第21イリノイ歩兵連隊の大佐に任じられた。同年8月に准将に昇進し、1862年2月には河川砲艦と奇襲を組み合わせてヘンリー砦とドネルソン砦を奪い、西部戦線の河川交通の要衝を押さえた。シャイローの戦いで南軍の奇襲を撃退したが、上官ハレックは飲酒癖を理由に一時グラントを解任し、のちに再任した。1863年7月4日にはビックスバーグ要塞を陥落させ、11月にはチャタヌーガで南軍を破った。
1864年3月、リンカーン大統領はポトマック軍の司令官選びに悩んでおり、西部で成果を上げたグラントが北軍総司令官に任じられた。グラントは物量を背景に東部で不屈の南下作戦を進め、荒野の戦いなどでリーの南軍に消耗を強いながら、リッチモンドの裏口ピーターズバーグを包囲した。リーはピーターズバーグを放棄して撤退を図ったが、グラントの北軍に捕捉されて、アポマトックス・コートハウスで降伏した。これによって残る南軍部隊も次々と降伏し、グラントは南北戦争の英雄となった。1866年7月には、連邦議会が4つ星の陸軍大将に任命した。
1868年5月、共和党の満場一致の候補に選ばれ、同年の大統領選挙で3,012,833票(52.7%)を得て勝利した。しかしグラント政権は汚職とスキャンダルに悩まされた。とくにウイスキー汚職事件では、個人補佐官のバブコックが起訴されたが、大統領の恩赦で有罪判決を免れた。陸軍長官ベルナップの収賄も調査で明らかになった。グラント自身が利益を得たという証拠はないものの、犯罪者に厳しい姿勢を取らなかった。南部の再建や先住民対策にも失敗し、支持は急落した。2期8年の退任後は、1877年から約2年間、夫妻で世界を巡り、1879年7月から9月には日本に国賓として滞在して、8月10日に明治天皇と会見した。1884年、グラント・アンド・ウォード商会の倒産による負債で窮乏し、マーク・トウェインの勧めで回想録を執筆した。末期の喉頭癌に冒されており、完成したのは死の数日前であった。回想録はベストセラーとなり、妻子に豊かな収入をもたらした。1885年7月23日、ニューヨーク州のマウント・マクレガーで死去した。50ドル紙幣の表には肖像が使われている。
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