伝記
カート・ヴォネガットは、1922年11月11日にアメリカのインディアナ州インディアナポリスで、ドイツ系移民の家庭に生まれた小説家、随筆家、劇作家である。誕生日は第一次世界大戦の休戦記念日にあたり、彼はそれを誇りとして、のちに祭日が「復員軍人の日」に変わったことを『チャンピオンたちの朝食』で批判的に取り上げた。父カート・ヴォネガット・シニアと祖父はともにマサチューセッツ工科大学の出身で、建設会社の建築士を務め、曽祖父は金物会社を起こした人物である。1976年の『スラップスティック』より前の作品は、カート・ヴォネガット・ジュニアの名で出版された。
1940年にコーネル大学に入学して生化学を学び、学内紙の副編集長も務めた。在学中に陸軍に徴募され、機械工学を学ぶためにカーネギー工科大学とテネシー大学に転校させられた。1944年の母の日には、母エディスが睡眠薬を過剰に服用して自殺した。生活の困窮や、息子がドイツ戦線に配属されることを苦にしたものとされる。同年、第106歩兵師団の兵卒として欧州戦線に参加し、バルジの戦いで師団が取り残された12月19日に捕虜となった。ドレスデンに連れて行かれ、ドイツ語が少しできることから捕虜のリーダーの一人に選ばれたが、守衛に不満を話して打たれ、地位を剥奪された。1945年2月、連合軍によるドレスデン爆撃を捕虜として経験し、芸術の都と称された市街は壊滅した。捕虜の一団は、ドイツ軍が収容所にした屠畜場の地下の肉貯蔵室で爆撃を生き延びた。ドイツ人がその建物を第5屠畜場と呼んでいたため、捕虜たちも収容所をその名で呼んだ。この体験は『スローターハウス5』に反映され、少なくとも他の6冊の主要な主題にもなっている。死体が多すぎて埋葬できず、ドイツ軍が火炎放射器を持つ部隊を送って灰になるまで焼いたと、彼は記している。1945年5月に赤軍に送還され、アメリカに戻るとパープルハート章を授与された。
除隊後、幼なじみのジェーン・マリー・コックスと結婚し、シカゴ大学大学院で人類学を学んだ。修士論文は、創作物を幸運と不運、時間のグラフで分類する内容だったが、学術的でないとして拒まれた。この考えは、いまでは感情曲線と呼ばれ、創作者の手引きになっている。1947年にニューヨーク州スケネクタディに移り、ゼネラル・エレクトリックの広報で働いた。1950年に短編「バーンハウス効果に関する報告書」で作家デビューし、1952年にはディストピア小説の初長編『プレイヤー・ピアノ』が出た。1959年に『タイタンの妖女』、1963年に『猫のゆりかご』を発表し、1965年にアイオワ大学の創作講座の講師となった。ここでジョン・アーヴィングらを教えるうちに『猫のゆりかご』がベストセラーとなり、1969年の『スローターハウス5』を完成させた。反体制の若者たちに熱狂的に支持され、1966年には絶版だった全作品がペーパーバックで再版された。
人類への絶望と皮肉と愛情を、シニカルでユーモラスな筆致で描き、現代アメリカ文学を代表する作家の一人とされる。ヒューマニストとして知られ、アメリカヒューマニスト協会の名誉会長も務めた。『チャンピオンたちの朝食』(1973年)では、作者本人が「デウス・エクス・マキナ」として登場する。作中には、SF作家キルゴア・トラウトなど、複数の作品にまたがって現れる人物がいる。1984年に自殺未遂をしたことがあると自ら書いている。2007年、マンハッタンの自宅の階段で転倒して脳を損傷し、数週間後の4月11日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- リチャード・マスグレイブ (2007年没)
- Lucien Teisseire (2007年没)
- ウッディ・ソウルズベリー (2007年没)
- ナターシャ・サアド (2007年没)
- シーモア・ベンザー (2007年没)
同じ地域に関係する人物
- ロバート・W・チェンバース (1933年没)
- ビックス・バイダーベック (1931年没)
- フョードル・ダン (1947年没)
- マーク・コネリー (1980年没)
- リロイ・グラマン (1982年没)