伝記
ベルトルトは、900年頃に生まれ、947年11月23日に没したバイエルン公(在位938年〜947年)である。ルイトポルト家の出身で、バイエルン辺境伯ルイトポルトの息子にあたり、バイエルン公アルヌルフの弟である。母は、シュヴァーベン宮中伯エルカンガーの姉妹クニグンデとされる。
父ルイトポルトは、893年に国王アルヌルフからカランタニア(のちのケルンテン)の辺境伯に任じられた。幼王ルートヴィヒに忠実に仕えた人物で、907年にプレスブルクでマジャル人と戦って討ち死にしたという。ベルトルトは、兄アルヌルフがレーゲンスブルクでバイエルン公として国王に認められていた926年に、ケルンテンの伯として初めて記録に現れる。927年には、国王ハインリヒ1世からケルンテン公の権利を与えられたとされる。
937年に兄アルヌルフが没すると、子のエーバーハルトが跡を継ぎ、バイエルン公国の自立を保とうとした。しかし新王オットー1世と対立し、938年の春にオットーがバイエルンへ侵攻して、エーバーハルトは公位を奪われた。その後任に選ばれたのが叔父のベルトルトである。ただし、ベルトルトは兄のような強い権限は与えられず、司教を任命する権利を失った。翌年にはオットーがザルツブルクの新しい大司教としてヘルホルトを指名し、バイエルンの王領の管理も、甥にあたる宮中伯に任された。それでもベルトルトは、在位のあいだオットー朝に忠実であり続け、オットー1世の治世を支えた。ベルトルトが公位に就いたことで、バイエルンとカランタニアは再び一人の支配のもとに置かれた。
ベルトルトは、オットーの妹で、ロートリンゲン公ギーゼルベルトの寡婦であるゲルベルガとの結婚を望み、のちにその娘ヘートヴィヒやアルベラーデとの縁組も図ったが、いずれも実現しなかった。そこでバイエルン貴族の娘ビルトルートと結婚した。結婚は939年頃とされる。943年8月にはヴェルスでマジャル人(ハンガリー軍)を破り、かつて兄アルヌルフがしたように、バイエルンを侵略から守った。カランタニア(現在のシュタイアーマルク州)のキリスト教化は、ベルトルトによるところが大きいとされる。
947年にベルトルトが没すると、オットー1世は幼い息子ハインリヒに公位を継がせなかった。代わって公となったのは、兄アルヌルフの娘ユーディトと結婚していた、オットーの弟ハインリヒ1世である。976年になって、ベルトルトの息子ハインリヒは、皇帝オットー2世からケルンテン公位を、その埋め合わせとして与えられた。この人物はケルンテン公としてはハインリヒ1世、バイエルン公としてはハインリヒ3世と数えられる。ベルトルトはニーダーアルタイヒ修道院に葬られた。妻ビルトルートは、976年にノイブルク・アン・デア・ドナウ近郊のベルゲンにベネディクト会の修道院を創設した。夫妻にはハインリヒのほか、シュヴァインアッハガウ伯ウルリヒの妻となった娘クニグンデがいた。
同じ年に亡くなった人物
- ウーゴ (イタリア王) (947年没)
- 耶律堯骨 (947年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。