伝記
エウリュディケ2世は、マケドニア王アミュンタス4世と、ピリッポス2世の娘キュナネとのあいだに生まれた女性で、ピリッポス3世の王妃となり、紀元前317年に没した。生年は不明だが、アレクサンドロス大王が父アミュンタスをピリッポス2世の暗殺の直後に殺したことから、紀元前335年より後の生まれではないとされる。本名はアデアといい、のちにエウリュディケに改められた。結婚の際の改名で、王家の名を思わせる称号のようなものだった可能性があるともいわれる。軍事の素養のあった母キュナネに育てられ、戦術を学んで雄々しい女性に育ち、のちにオリュンピアスと争ったときには鎧を着て戦ったという。
紀元前323年にアレクサンドロス大王が亡くなると、次の王をめぐる問題が起こり、エウリュディケは母キュナネに同行してアジアに渡った。キュナネは、バビロン会議の結果、摂政として実権を握ったペルディッカスの弟アルケタスによって殺された。この事件に軍が憤慨したため、それを鎮めるために、ペルディッカスの計らいで埋め合わせとして、エウリュディケは大王の異母兄ピリッポス3世と結婚することになったとされる。ピリッポス3世は精神に障害を持っていたため、王妃となった彼女には、政治の場で主体的に動く余地が生まれた。
紀元前321年にペルディッカスが諸将の攻撃を受けて殺されると、新体制を定めるためトリパラディソスで会議が開かれた。エウリュディケはここで、ペイトンとアリダイオスの新摂政就任に対し、自分の許可なしに何事も決めさせるべきではないと唱えた。力不足だった二人の摂政は辞任し、代わってアンティパトロスが候補にあがった。エウリュディケは、アスクレピオドロスが代筆したというアンティパトロス弾劾の演説を軍の集会で行い、兵士たちが騒然としたため、アンティパトロスは命からがらその場を逃れた。しかし、将軍たちと貴族階級の騎兵たちの支持を得たアンティパトロスが騒動を収めて摂政に就任し、権力を握ろうとした彼女の試みは失敗に終わった。
その後、夫とともにマケドニアに戻ったが、紀元前319年にアンティパトロスが死ぬと、再び動き出した。アンティパトロスに後継者に指名されたポリュペルコンおよび大王の母オリュンピアスと、父の後を継ぐべきだと考えていたカッサンドロスとのあいだに対立が起きると、エウリュディケはカッサンドロスと手を結んだ。ポリュペルコンに軍をカッサンドロスへ引き渡すよう命じる手紙を書き、紀元前317年にはオリュンピアスと一戦を交えようと挙兵した。しかし、エピロスにいたオリュンピアスが大王の遺児アレクサンドロス4世を奉じて帰国すると、将兵たちは戦わずにオリュンピアスの側についた。エウリュディケは夫とともにアンフィポリスへ向かう途上で捕らえられた。
二人は狭い牢獄に押し込められ、のちにオリュンピアスはエウリュディケに剣と縄とドクニンジンを送って死を命じた。これはディオドロスの劇的な記述で、史実としては正確でない可能性もあるとされる。エウリュディケはオリュンピアスにも同じ運命が訪れるよう祈り、すでに殺されていた夫の体の傷を拭き、嘆きも卑屈さも見せずに縄で首をくくって命を絶ったという。紀元前316年、カッサンドロスは競技会を伴う盛大な葬儀を催し、エウリュディケとピリッポス3世、そしてキュナネを弔った。エウリュディケは夫とともにアイガイの王墓に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ポロス (古代インドの王) (紀元前317年没)
- 楊朱 (紀元前 317年)
- ピリッポス3世 (紀元前317年没)
同じ地域に関係する人物
- アレクサンドロス4世 (紀元前309年没)
- A.H.M.ジョーンズ (1970年没)
- ペルディッカス2世 (紀元前413年没)
- グリゴリス・ランブラキス (1963年没)
- エウリピデス (紀元前400年代没)