HISTORICAL PERSON · 945年没

紀貫之

平安前期から中期の歌人で三十六歌仙の一人。醍醐天皇の命で紀友則らと古今和歌集を撰上して仮名序を執筆し、勅撰集に435首が入集した。土佐日記は完本で伝わる最古の日記文学とされる。

生涯
945年没
死亡地
律令日本(京都府 / 平安京)
出生地
律令日本(平安京)
出典
世界地図
律令日本(京都府)

伝記

紀貫之(きのつらゆき)は、平安時代前期から中期にかけての貴族であり歌人である。下野守・紀本道の孫で、紀望行の子。『古今和歌集』の撰者の一人、三十六歌仙の一人として知られる。生年は866年とも872年ともいわれる。母は内教坊の舞人の出身で名は伝わらず、幼名を「内教坊の阿古久曽」といったとされる。

歌人としての出発は893年である。この年に『是貞親王歌合』や『寛平后宮歌合』に歌を出し、『新撰万葉集』にも入集した。官職の面では、901年ごろに御書所預となり、906年に越前権少掾、907年に内膳典膳を務めた。910年に少内記、913年に大内記となり、917年に従五位下に叙されて加賀介を兼ね、翌918年には美濃介も兼ね、923年に大監物、929年に右京亮となった。歌の実力は早くから世に知られていたが、官位は低かった。子に紀時文がおり、娘の紀内侍は「鶯宿梅」の故事で知られる。もう一人の娘は土佐で早世したかとされる。

905年、醍醐天皇の命により、紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒とともに、初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を撰上した。貫之は仮名で書かれた序文である仮名序も執筆した。「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの序は、和歌の歴史を神話の時代から同時代まで述べ、歌をいくつかの種類に分け、主な歌人にふれ、在原業平ら先人には手厳しい批評も加えた。和歌についての初めての批評文であり、後代の文学に大きな影響を与えたという。907年には宇多上皇の大井川への行幸に従って歌や序を献じ、913年には『亭子院歌合』に参加した。屏風に添える歌も詠み、のちに醍醐天皇の勅命で『新撰和歌』を編んだ。

930年に土佐守に任ぜられ、934年までその任を務めた。60歳を過ぎての任官であった。土佐国から京へ帰る道中の出来事を、諧謔を交えて仮名で綴った『土佐日記』は、貫之の作とされる。日記は女性の視点で書かれ、作中には娘の死をうかがわせる記述もある。日本の日記文学として完本で伝わる最古のものであり、のちの仮名日記や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。938年には周防国に滞在していた。940年に玄蕃頭、943年に従五位上となり、945年3月に木工権頭に任ぜられた。

貫之は945年、または946年に世を去った。没日は5月18日とも6月30日ともいわれる。1904年には従二位を贈られた。『古今和歌集』に101首、以後の勅撰和歌集を合わせて435首が入集しており、これは歌人の中で最多である。理知的で分析的な歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自ら撰んだ。『小倉百人一首』には「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」が収められている。『大鏡』は、943年正月に大納言藤原師輔が、父の太政大臣藤原忠平に魚袋を返す際に添える歌の代作を頼もうと、わざわざ貫之の家を訪れたと伝える。邸宅は平安京左京一条四坊十二町にあたり、前庭に多くの桜があったことから「桜町」と呼ばれたという。比叡山中腹の裳立山を愛し、没後はそこに葬られることを願ったといわれ、墓所と伝わる場所が現在も残る。三重県津市にも貫之の墓と伝わる墓碑がある。『袋草紙』などには、貫之の詠んだ歌の力で幸運がもたらされたという歌徳説話が数多く伝わる。貫之を主祭神として祀る神社も、滋賀県大津市の福王子神社や愛媛県松山市の紀貫之社など各地にある。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物