伝記
デモステネスは、古代ギリシアの政治家であり弁論家である。紀元前384年ごろにアテナイで生まれ、紀元前322年に亡くなった。アッティカ十大雄弁家の一人に数えられ、アテナイの指導者として、ギリシアの諸ポリスの自立を訴えて反マケドニア運動を進めたが、望みは叶わず、自殺に追い込まれた。
生家は富裕な商工業者で、武器を作る工場を持っていたとされ、そのために古くからの貴族の家柄の人々から見下された。のちの宿敵アイスキネスは、母クレオブレがスキタイ系の出だと主張したが、現代の研究者には疑う者もいる。しかし7歳で父を亡くし、遺産の管理は叔父のアポボスらの後見人に委ねられた。後見人たちは経営の誤りか悪意かによって財産を使い果たし、少年は極度の貧しさに置かれたという。成年に達した彼は会計の調べを求め、横領があったと主張した。この遺産を取り返すために、アッティカ十大雄弁家の一人イサイオスに師事して弁論術を学んだとされる。16歳のころ、名弁論家カリストラトスの裁判を傍聴して、その才能に驚き、弁論を学ぶ決意を固めたとも伝わる。20歳で後見人たちを訴え、法廷で数回の弁論を行った。判決は損害を10タラントンと定めたが、結局取り戻せたのは遺産の一部にとどまった。その後は、法廷弁論の代作や弁護、弁論術の指導で生計を立て、次第にアテナイの政治にも発言を強めていく。紀元前354年には、初めて公の場で政治演説をしている。
そのころのギリシアの諸ポリスは、市民が武装して都市を守る戦士集団としての性格を失い、傭兵に頼る戦争を繰り返すうちに、市民共同体を保つ精神も損なわれていた。一方、北のマケドニア王国はピリッポス2世のもとで強大になり、諸ポリスの独立は危うくなっていた。デモステネスは反マケドニアを掲げ、紀元前339年のアテナイ・テーバイ同盟の成立にも力を尽くしたが、翌年のカイロネイアの戦いで同盟軍はピリッポス2世に完敗した。世論は、長い抗争に疲れ、強い指導者のもとでの平和を望む声もあり、マケドニアに屈することを必ずしも否定していなかった。弁論家イソクラテスはピリッポスのもとでのギリシアの団結を論じ、ライバルのアイスキネスは、マケドニアのもとでの統一を説く親マケドニアの立場だった。デモステネスは各地を遊説しても機運を高めきれず、スパルタを除く諸ポリスがマケドニアに屈した。
紀元前336年、ピリッポス2世が暗殺されると、この機に再び反マケドニア運動を起こしたが失敗し、亡命を余儀なくされた。紀元前323年に息子のアレクサンドロス3世が熱病で急死すると、アテナイに帰国して運動を再開し、アテナイはラミア戦争を起こす。しかしマケドニア軍に鎮圧され、追っ手が迫るなか、服毒して自ら命を絶った。追っ手は、大王の後継者アンティパトロスの腹心アルキアスだったという。
弁論家としての名声は極めて高く、彼の代表的な弁論『ピリッピカ』は、共和政ローマでもよく読まれた。キケロは、マルクス・アントニウスを僭主として糾弾する自分の一連の弁論に、この題名を与えている。キケロは彼を「完璧な弁論家」と称賛し、『冠について』は古典ギリシア語散文の最高峰との評価が定まっている。
同じ年に亡くなった人物
- アリストテレス (紀元前322年没)
- レオンナトス (紀元前322年没)
- ナウクラティスのクレオメネス (紀元前322年没)
- Leosthenes (紀元前322)
- キュナネ (紀元前322)
同じ地域に関係する人物
- シラニオン (紀元前360)
- ゲオルギオス・ラリス (2006年没)
- フィロセイ (1589年没)
- ペレクラテス (紀元前450)
- Callimachus (紀元前460)