伝記
ポール・ギュスターヴ・ドレは、1832年1月6日にフランスのアルザス地方のストラスブールで生まれたイラストレーター、画家であり、版画家、挿絵画家、彫刻家でもあった。1843年、理工科学校の卒業生であった父ジャン=フィリップがアン県の土木局の技師長に任用され、一家はブール=カン=ブレスに居を定めた。早熟な少年は中学校の優秀な生徒であったが、周りのブレス地方の人々に着想を得た風刺画や素描でも注目を集めた。12歳のとき、地元の印刷屋がヘラクレスの十二の功業を描いた彼の最初のリトグラフ集を出版した。これが目に留まり、パリの出版者シャルル・フィリポンが彼にパリ住まいを勧めた。1847年からシャルルマーニュ高校で学ぶ一方、フィリポンの風刺新聞のために風刺画を描き、すぐに著名人たちと知り合った。1848年にはサロンに2枚のペン画を出展した。1849年に父が亡くなったあとも、母と同居を続けた。
1851年からは、油絵を展示するかたわら、宗教的な主題の彫刻も制作し、数多くの新聞雑誌に寄稿した。15歳のころから画家として活躍していたといわれる。1853年にはバイロンの挿絵を手がけ、1854年には出版者ブリーが、彼の挿絵によるラブレー全集を出版した。ほかにイギリス版の聖書やポーの『大鴉』、バルザック、ミルトン、セルバンテスなどの挿絵も描いた。エネルギッシュな独学の人であり、1852年から1853年のあいだに、フランスで刊行された120冊以上の書籍に加え、イギリス、ドイツ、ロシアの書籍にも挿絵を寄せた。クリミア戦争では、フランスとイギリスが戦端を開いたロシアを攻撃し、風刺する本を著者兼画家として著した。この本はバンド・デシネの原型となる画集とされ、文章と絵のずれを巧みに利用して、視覚的な機知を展開している。
社交界でも活躍し、大きな絵画の制作へと活動を広げた。1861年から1868年にかけて、ダンテの『神曲』を題材にした連作を製作したほか、ヴェルギリウスを描いた大作や『謎』、幅6メートル、高さ9メートルに及ぶキリストの絵(1867年から1872年)などがある。同じ時期に、幻想画や攻撃的な肖像画を含む、あらゆるジャンルの素描やイラストを量産し、名声は全ヨーロッパに広まった。1865年に出版した挿絵入りの聖書は大好評となり、1869年にロンドンに開いた画廊も大成功を収めた。同年から4年にわたって、記者とともにロンドン市内のスラム街やアヘン窟にも出向き、180点の版画を描いて出版した。
多くのイラストレーターに強い影響を与えた1万点以上の作品を残し、1883年1月23日、パリで心筋梗塞のため51歳で没し、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。1931年にはアンリ・ルブランが、イラスト9850枚、音楽作品68曲、ポスター5枚、リトグラフ51枚、素描526枚、水彩画283枚、油絵133枚、彫刻45体などの計11015作品からなる解題付きの目録を出版した。ブール=カン=ブレスの美術館は彼の油絵、素描、彫刻など136作品を所蔵している。日本の国立西洋美術館にも『ラ・シエスタ スペインの思い出』が常設展示されている。
同じ年に亡くなった人物
- エドゥアール・ロシュ (1883年没)
- 岩倉具視 (1883年没)
- フランチェスコ・デ・サンクティス (1883年没)
- カール・マルクス (1883年没)
- エドゥアール・ド・ラブライエ (1883年没)
同じ地域に関係する人物
- ダリー・コール (2006年没)
- ジュール=アンリ・ヴェルノワ・ド・サン=ジョルジュ (1875年没)
- クロード・フランソワ (1978年没)
- アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール (1817年没)
- エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレール (1844年没)