HISTORICAL PERSON · 1817年没

アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール

フランスの批評家・小説家。初期ロマン派の作家で、革命期からナポレオン時代に政治評論を行い、ナポレオンと対立した。フェミニズムの先駆者ともされる。

生涯
1817年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタールは、1766年4月22日にパリで生まれ、1817年7月14日に亡くなったフランスの批評家、小説家で、スタール夫人の名で知られる。フランスにおける初期のロマン派作家で、フランス革命からナポレオンの君臨に至る時代に多くの政治評論を書き、ナポレオンと終生対立した。フェミニズムの先駆者でもある。スイスの政治家で財政家のジャック・ネッケルと、牧師の娘シュザンヌ・キュルショーの娘として生まれ、母はカルヴァン派の信仰に基づく教育を施した。幼いころから、百科全書派の哲学者や文学者が集う母のサロンに出入りし、その才能を絶賛された。14歳のころにはすでに自分の仲間を持ち、客と会話できたという。英語やラテン語、舞踊や音楽も学び、その学識の深さは同じ階層の少女とは異なっていた。

1786年に、パリに住むスウェーデン大使のスタール=ホルシュタイン男爵と結婚したが、2年後には別居状態になった。1788年に『ルソーの性格および著作についての手紙』で文壇に認められた。フランス革命には積極的に関わり、外国大使の妻という身分を生かして、革命が過激になる中、生命の危険にさらされた友人たちの身の安全の確保に努めた。穏健な政治姿勢が反感を買い、父の領地のあるスイスのコペに亡命し、パリとの往復を繰り返した。1794年ごろにバンジャマン・コンスタンと知り合った。1795年に『小説論』を発表してゲーテに絶賛され、1796年には、モラリスト的な立場で情熱と愛を描いた『個人と国民に及ぼす情熱の影響について』を書いた。革命が穏健な立憲君主制から遠ざかっていくのを憂い、マリー・アントワネットの助命を懇願する論文も手がけた。夫とは1799年に正式に離婚したとされる。

1800年の『文学論』では、文学者の反専制的使命と自由を強調し、ナポレオンの不興を買った。1801年にナポレオンが教皇と和解すると、カトリックの迷信性を論った小説『デルフィーヌ』(1802年)を出版し、ナポレオンは激怒して、彼女はパリから追放された。ドイツに旅行して、ヴァイマルやベルリンなどを訪れ、父の死を挟んでイタリアへも旅立った。コペでは、サロンでの活動に熱中して、多くの人と批評を交わした。イタリアの天才的女性詩人コリンヌの運命を綴った小説『コリンヌまたはイタリア』を発表し、さらにドイツ・オーストリアへ旅した。2回のドイツ旅行と、家庭教師に雇ったシュレーゲルの助けのもと、ドイツ人の民族性とロマン主義を綴った『ドイツ論』を、出版のためにパリに持ち込んだが、フランスの自文化中心主義を批判したことで、ナポレオンの怒りを買い、発禁になった。以後は監視の下に置かれた。

1812年ごろ、20歳以上年下のスイス人の士官アルベール・ド・ロッカと再婚し、オーストリア、ロシア、スウェーデン、イギリスへ赴いた。1813年にはイギリスで『ドイツ論』を発刊した。1814年にナポレオン体制が崩壊するとパリに戻り、スウェーデン王太子ベルナドットを立てて立憲君主制を実現しようと、欧州諸国を巡って画策した。しかし結果はブルボン家による王政復古であった。1816年に『逃亡の10年』を出版し、サロンにはもう昔日の姿はなかったという。晩年はアヘンも常用し、脳出血で倒れて半身不随となり、1817年にパリで51歳の生涯を閉じた。『フランス革命についての考察』は死後に出版された。子孫に、首相を務めたブロイ公爵アルベールや、ノーベル物理学賞を受けたルイ・ド・ブロイがいる。

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