伝記
伊勢は、平安時代前期の女性歌人である。生年は872年(貞観14年)ごろとも877年ごろともいわれ、没年は938年(天慶元年)ごろとされる。実名や正確な生没年は伝わらない。三十六歌仙と女房三十六歌仙のどちらにも数えられ、伊勢の御、伊勢の御息所とも呼ばれた。
藤原北家真夏流に属し、父は伊勢守藤原継蔭である。伊勢という呼び名は、父が885年から890年にかけて伊勢国の国司を務めたことに由来すると考えられている。祖父は日野の法界寺の創建者だったとされる。一方、祖父に和歌の名手として知られた大中臣能宣を挙げる記述もある。はじめ宇多天皇の中宮温子に女房として仕え、温子に気に入られていたという。宮廷では多くの恋愛で知られ、藤原仲平・時平の兄弟や平貞文らと交際したと伝えられる。温子の兄弟の一人との劇的な恋の伝説も語られている。のちに宇多天皇の寵愛を受けて皇子を産んだが、皇子は幼くして世を去った。この皇子は行明親王とされる。
宇多天皇が退位し、温子が907年に没したのち、伊勢は天皇の皇子である敦慶親王の愛人、あるいは妻となり、娘の中務を産んだ。中務もまた歌人として知られる。宇多天皇の没後、摂津国嶋上郡古曽部の地に庵を結んで隠棲したと伝えられ、のちにその跡に伊勢寺が建てられたといわれる。
伊勢は宮廷の歌の場で活躍した。913年の亭子院歌合をはじめ、多くの歌合の主催や参加に関わったとされる。屏風に添える屏風歌も詠み、現在に72首が伝わる。その歌は情熱的な恋歌で知られ、時代とともに変わる歌風を象徴するものとされた。905年に成立した『古今和歌集』には22首が入り、勅撰和歌集全体では176首が入集したとされ、184首と数える記述もある。『後撰和歌集』には65首、『拾遺和歌集』には25首が採られ、これらの集で女流歌人として最多である。『新古今和歌集』にも15首が入る。小倉百人一首にも、次の歌が採られた。「難波潟 みじかき芦の ふしのまも あはでこの世を 過ぐしてよとや」。
私家集には『伊勢集』があり、村上天皇の命によって娘の中務が編んだものと伝えられる。のちの時代にも歌人として尊ばれ、鎌倉時代には女房三十六歌仙に選ばれた。名のよく似た後代の歌人に伊勢大輔がいるが、別人である。
同じ年に亡くなった人物
- Ibn Wahshiyya (930年)
- フヴィーンのショーゾールヴル (930年)
- アブー・カーミル・シュジャー・イブン・アサラム (930年没)
- レステク (930年(推定))
- 醍醐天皇 (930年没)